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平和へいわいしじ

執筆者:

写真:垂見健吾

1995年の沖縄戦終結50年の節目の年に、糸満市摩文仁まぶにに建立された巨大モニュメントで全戦没者の氏名が刻銘されている。

沖縄戦で死亡したのは、沖縄の住民、旧日本軍兵士、アメリカ軍兵士、イギリス軍兵士、それに朝鮮半島から強制的に連れてこられた大韓民国籍、朝鮮民主主義人民共和国籍の人々、そして台湾籍の人々が合わせて23万人余で、判明した全ての人の名が刻まれている。「平和の礎」は、アメリカのワシントンDCに建立されている「ベトナム戦争戦没者記念碑」などを参考にしているが、敵味方分け隔てなく建立されたという点では独自の形式を採用している。

アジア太平洋戦争末期の最大激戦地であった沖縄戦では、物量作戦のアメリカ軍と時間稼ぎ作戦の旧日本軍とが狭い島で攻防を重ねたために、住民を巻き込んでの激しい戦闘が繰り広げられた。

「平和の礎」の建立除幕式は、6月23日の「慰霊の日」になされたが、それ以降、多くの遺族や外来者が訪れる。糸満市摩文仁周辺には、競うようにして各都道府県の慰霊塔が建ち並んでいる。47都道府県のうち、唯一、慰霊塔がないのが沖縄県であったが、最近では「平和の礎」そのものが慰霊塔化、あるいは聖域化している面も。それは、あまりにも沖縄戦が激しく、いつ、どこで、どのようにして亡くなったかという詳細を知りようがない遺族が、6月23日を命日として、摩文仁付近で亡くなったとみなしていることによる。

「平和の礎」の配置構成は大きく2つに分けられる。正面から海岸部に向かって歩くと中央通路を隔てて右側に旧日本軍人、アメリカ、イギリスの兵士、それに韓国、北朝鮮、台湾の人々の名が配置されている。逆に通路をはさんで左側には沖縄住民の名が連なっている。ここであらためて気付くことは、住民を巻き込んだ戦闘では、いかに女性や子ども、お年寄りが犠牲になったかということである。軍人はまずすべてが男性であるが、地元側は男女の区別、年齢的なことはいっさい関係なく犠牲となる。そのことが「平和の礎」に、具体的に浮き彫りにされている。

敵味方なく刻銘する方式が内外からも高く評価された「平和の礎」の建設理念だが、問題がないわけではない。まず、沖縄側の刻銘が沖縄戦だけにとどまらず15年戦争の犠牲者が刻まれたこと。そのことで沖縄戦という位置づけが曖昧となった。あと一点は、韓国・北朝鮮籍出身者の氏名が不十分であること。しかし、韓国・北朝鮮の人々が刻銘されている場所には、相当のスペースが確保されており、今後いくら時間がかかろうとも名を刻んでいくという決意が求められる。

全国でも最大の犠牲を被った沖縄が、単に被害だけにとどまらず加害の面もあったことを心に刻むことで、「平和の礎」が他に類をみないモニュメントとしての存在価値を増してくる。