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金門きんもんクラブ

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200人目のガリオア留学生の到着を歓迎する金門クラブ
沖縄県公文書館所蔵

1949年、ガリオア資金によるアメリカ留学制度がはじまった。この制度は日本本土でも行なわれたが、アメリカの直接統治が長かった沖縄のほうが人口比にして留学生数がうんと多く、留学のもつ意味が重かった。ガリオア資金からやがてフルブライト奨学金にかわったが、1949年から70年まで、アメリカの大学で学んだ沖縄の若者は1089人に達している。

1952年、留学から帰った人々が、親睦団体「金門クラブ」を結成。初期の留学生は船で太平洋を渡り、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジをくぐってアメリカ入りしたので、この名称になった。

金門クラブの会員たちは、おおむね沖縄のエリート・コースを歩んだ。琉球銀行、沖縄銀行、沖縄電力、琉球大学などの要職に就いた人がきわめて多かった。もちろんこれは現在にも及んでいて、大田昌秀おおたまさひで前沖縄県知事もそうである。

金門クラブの活動がいちばん華やかだったのは、1958年から64年頃だった。米軍施設だったハーバービュー・クラブで、さかんにアメリカ式のパーティーをやった。金門クラブは組織として政治活動をしたことはなかったけれども、世間では「アメリカの親衛隊」と受けとるものが多かった。

沖縄のもっとも困難な時代に、金門クラブ会員のエリートたちが何を考え、何をしたかは、きわめて興味深い。その概要を知るには金城弘征著『金門クラブ』(おきなわ文庫)が好適である。

金門クラブの活動は1972年の日本復帰後下火になり、同クラブは1982年、ガリオア・フルブライト沖縄同窓会として発展的に解消した。