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なな30さんまる

執筆者:

写真:嘉納辰彦

1978年7月30日、施政権返還(1972年の本土復帰)に伴い、33年間アメリカ流に右側通行だった沖縄の交通法が、日本全国と同じように左側通行に変わった。

前日の午後10時以降は、特別交通規制が布かれて全県車両通行止め、駐車禁止。交通区分の表示切り換え作業などが夜を徹して行われている間、県民は家で静かに朝を待った。

午前6時が近くなると、国道58号にかかる陸橋などに人が群がり出した。みんな今までと逆の方向を走る車を一番に見たいのだ。そして、午前6時。始発のバスが左側車線を走り出す。徐々に車の数も増えてきた。高校1年生だった僕は、テレビの前でその歴史的瞬間に立ち会ったのだが、朝飯を食べた後に、父と2人で「見てこよう」と車に乗った。自分たちも左側を走らないといけないのに「見てこよう」は変だが、そんな気持ちだった。

父は国道に出る前に、一度逆走した。小さな道を進んでいるうちは良かったのだが、片側2車線の交差点を左折したときにいつもの習慣で大きく外側に回り、反対側の車線に入ったのだ。「逆、逆!」と叫ぶ僕。しかし、中央分離帯があるので左側には戻れない。正面から走ってくる車にクラクションで脅かされながら、父は少しずつバックして交差点に戻り、ことなきを得た。恥ずかしかった。

同じような人はかなりいたようで、当時の記録を見ると「混乱、事故続出で、都市地区(の道路事情)は10日以上にわたってマヒ状態」とある。ちなみに8月6日までの8日間で、人身事故41件、物損事故528件。その年の交通事故発生件数が1644件なので、単純計算すると事故の35%がこの8日間に起きたことになる。

こういう状況がドライバーの気を引き締めたのだろう。年間でみると、その年の事故件数は、前年より350件ほど減った。

交通法とともに、人の流れも逆になった。これで大打撃をくらった商売も続出した。例えば、那覇からヤンバルまで遊びに行くときは、右側通行のときは北に向かって右側のガソリンスタンドを多く利用していたのだが、この流れが左側に変わったためにつぶれてしまった例もある。お土産品店やバス停前の商店街にしても同じケースがかなりあった。補償問題にまでなったが、結局線引きが難しいということで、国による低利融資を引き出すのが精いっぱいだったようだ。

7・30でバスも一新した。これまで右側のドアが開閉する左ハンドルの型が、いっせいに右ハンドルになった。一部は改造して使ったが、その多くは廃車になったり、台湾などに輸出されたという。ベトナムなどのアジア圏で「左ハンドルの銀バス(那覇交通)を見た」などの目撃例は数多い。あれから20年余(1998年執筆当時)、今でも走っているだろうか。