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かんざし

執筆者:

写真:垂見健吾

琉球王国時代(明治12年の廃藩置県以前)、沖縄では男も女も髪のかたちをつくるのにかんざしを用いた。

男は欹髻(かたかしら)という髪の結い方をし、髪差かみさし(本かんざし)と押差おしざし(副かんざし)で髪をとめた。ヤマトのチョンマゲとはかなり異なった頭ができあがったわけだ。

そしてこのかんざしの素材によって身分・階層が一目でわかるように定められた制度があった。「かんざしの制」ができたのは、1509年(尚真王33年)、尚王朝が支配体制を整えようとした時代である。だから、男が本かんざしと押差、女が本かんざしとそばさしを使うという風習はそれ以前からあったと推定されている。

男の本かんざし(髪差)は、六角形の竿の頭部に花型がついていて、全長約10センチ。国王のは金製で花の部分が龍の模様。王子、按司あんじ三司さんし官(首相クラス)は金、親方うぇーかたは花が金で茎が銀、一般士族は銀、平民は真鍮。貧しい農民は木製のかんざしも使っていた。

女の本かんざしをジーファーといい、漢字で起花と書く。ジーファーも身分によって使用できる素材が定められていた。型は男と同じく六角形だが、長さは約17センチと男のものより長い。女性はとめるべき髪が多いからである。

「簪の制」ははちまき(冠)や衣服とともに身分を一目でわからせるものだったけれど、時代の変化とともに乱れが生じたらしい。1691年に大規模な改制が行なわれたりしている。そして尚王朝の解体以後、男はしだいにかんざしを使わなくなり1、女の本かんざし(ジーファー)だけが残った。

しかし今やジーファーを日常的に使っている女性はさすがにほとんど見かけなくなった。琉舞を踊る女性は頭を昔風に結う必要があるからジーファーを使う。琉舞がジーファーの需要を残し、それでジーファーをつくる技術もかろうじて残った。

六角形の銀製のジーファーは、それじたいが工芸品のように美しい。実際に髪結いに用いなくても手元に置いておきたくなるほどだ。那覇に数人の金細工師かねさいくしがいて、細々と伝統を受けついでいるが、又吉またよし健次郎さんのつくるものはとりわけ見事である。

【編集部注】

  1. 明治政府の断髪令(1871年公布)にならって断髪が進められた。