内容をスキップ

琉球処分りゅうきゅうしょぶん

執筆者:

『琉球新報』2014年7月11日記事より。琉球処分時に、首里城の歓會門前に立つ日本政府軍

「琉球処分」という言葉は、二種類の意味で用いられている。狭義には、明治初期の1872年から1879年にかけて、日本政府が琉球王国を廃し「沖縄県」として併合した経緯を指す。そして広義には、ヤマト側の沖縄にたいする不当な処遇一般を指す言葉として用いられる。

まず前者の狭義の「琉球処分」だが、明治政府は当初は交渉で併合を進めようとしたものの、琉球王府に抵抗されて挫折し、最終的には軍隊と武装警察を送りこんで王国を廃している。その動機は、明らかに沖縄を領土として確保することでしかなかった。

事態を複雑にしたのは、ここに歴史観の問題がからんだことである。琉球の併合をめぐって起きた清などとの外交交渉において、明治政府は領有を正当化するため、沖縄は古代から日本の一部であり、一時的に別個の王国を築いていたにすぎないという主張を行なった。そしてこの歴史観は、戦前だけでなく、戦後の復帰運動期にも広範に流布することになった。なぜなら、沖縄が歴史的に日本の一部であることが、復帰運動の重要な根拠とされていたからである。

琉球処分そのものについても、歴史上の評価にはかなりの変遷があった。復帰運動はその全盛期においては、米軍支配下の沖縄を、当時は平和憲法の国として理想化されていた日本の「県」に戻すことを目標としていた。そしてその時期における琉球処分の評価は、明治政府のとった方法こそ強権的ではあったものの、基本的には沖縄を日本の「県」として統合した政策として肯定するものであった。

この傾向がはっきりと変化したのは1960年代の後半、とくに自民党政権とアメリカ側の交渉によって、米軍基地を残留させたままの1972年復帰のプランが一方的に決定された1969年前後からである。この時期から、明治政府の琉球処分における侵略性を強調する議論が急速に増加するとともに、「琉球処分」が広義の意味で使われることが多くなった。すなわち基地削減を伴わないこの復帰政策にたいし、「第四の琉球処分」という形容が与えられたのである。

 この場合、1609年の薩摩による琉球王国侵攻を「第一の琉球処分」、明治政府による併合を「第二の琉球処分」、第二次世界大戦後のサンフランシスコ講和条約でアメリカ軍政下に沖縄を譲り渡したことが「第三の琉球処分」とされていた。1972年復帰については、さらに沖縄戦での惨禍をも数えて「第五の琉球処分」と称したり、あるいは単に「第二の琉球処分」と呼ばれたことも多い。こうした「琉球処分」の広義の使用法は現在でも受けつがれており、1995年の少女暴行事件から米軍用地特別措置法の一方的改正をめぐる一連の経緯などにたいしても、「琉球処分」という形容が散見している。

「琉球処分」は単なる過去の出来事ではなく、狭義の「琉球処分」をめぐる歴史観の変遷はそのまま沖縄とヤマトの関係を反映する鏡であったし、広義の「琉球処分」という形容詞は現在でもヤマトにたいする失望と怒りを表現する言葉となっている。この不幸な言葉の消滅する日がくることを願ってやまない。