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うちなーんちゅ

執筆者:

写真:垂見健吾

沖縄の人。「沖縄」は「うちなー」、「人」は「ちゅ」という。もうこれだけで説明をすませたいのだが、そうもいかない。沖縄県民=「うちなーんちゅ」ではないのだ。だから最近のように「うちなーんちゅ」に、「宮古の人」や「八重山の人」を含むように表現するのは、ちょっと留保したい。しかしこの「うちなーんちゅの境界」については、突き詰めていくとデージ大変だから、ここでは「おきなわ」にもともと住んでいた人くらいのニュアンスにしておこう。といっても、普段使う分には、単純に「自分たちは沖縄の人だぁ」というニュアンスでほとんど問題ないです。
 様々な身体的(きーまー、じーぐるー、顔がコユイ等)、歴史的(琉球処分、やまと世、沖縄戦、アメリカ世等)、文化的(てーげー、沖縄タイム、すぐタクシーに乗る等)特徴を有するうちなーんちゅは、沖縄と「日本・ヤマト」は違うんだという意識を、多かれ少なかれ持っている。つまり「うちなーんちゅ」という場合、どこかで「やまとぅんちゅ」との線引きをしているのだ。だから芥川賞を又吉栄喜さんが受賞した時に、審査員のひとりであった石原慎太郎さんが、「そこには、ウチナーンチュとかソトナーンチュとかいう区別はないのだ」という訳の分からないことを言っていたのも、理解できないこともない。「内縄人」と「外縄人」、つまり沖縄の人は、縄で囲むように内と外を分けている、と石原さんは文学者としての閃きで感じとったのであろう。ちなみに「ソトナーンチュ」という言葉は「ウチトンチュ」という言葉以上に定着しなかった。
 2、3年前、ある沖縄の高校生に「自分では、日本人と思う?沖縄人だと思う?」という質問を成り行きで質問したら、「うーん、日本人だけど、沖縄人」と答えた。「どっちが自分の中ではより強いと思う?」「うーん、やっぱり沖縄人があって、それから日本人って感じかなー」。ひと昔前だと「沖縄の心とは、やまとぅんちゅになりたくて、なれない心」(西銘順治)という名言のように、「沖縄人は、日本人かどうか」というアイデンティティ問題に苦しんだものだが、彼らの中では矛盾していない。「うちなーんちゅ」は、「やまとぅんちゅ」にはなれないが、「日本国民」にはなれたわけかしら(大田昌秀)。ボクはこの質問をSPEEDとMAXと安室奈美恵さんにしてみたい。

90年から始まった「世界のウチナーンチュ大会」には、沖縄県出身の移民二世、三世もばんない参加してくるから、単に対やまとぅんちゅ・アイデンティティとしてのみ「うちなーんちゅ意識」があるわけではなく、自らの文化的なアイデンティティを見つめ直す視点として「うちなーんちゅ意識」があるようだ。「我が内なるうちなーんちゅ」というわけだ。「うちなーんちゅとは、何か」なんていう問題を絶えずホットに語り出す人々、それが「うちなーんちゅ」なのかも。