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沖縄戦

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荒廃した沖縄

1945年3月26日、米軍の慶良間けらま上陸から、旧日本軍が組織的抵抗を終えた6月下旬を経て数カ月後まで続いた。アジア太平洋戦争における最終盤の戦闘で、「鉄の暴風」とも形容された。
 硫黄島、フィリピンを次々と占拠した米軍は、日本本土最後の防波堤である沖縄を攻略した。いきなり沖縄戦があったのではなく、15年にも及んだ満州事変以降の、日本のアジア侵略の当然の帰結としての沖縄戦を迎えたことになる。
 この沖縄作戦に参加した米軍は、後方支援部隊を含めて約54万8000人、艦船は1500隻にも及んだ。一方、迎えうつ旧日本軍は沖縄で現地召集した急ごしらえの防衛隊を含めても11万人余であった。米軍側は、旧日本軍がアジア太平洋各地で占領していた地域(島々)を次々と陥落させ、日本本土への包囲網をせばめ、台湾を飛び越えて橋頭堡としての沖縄に照準を定めた。日本側からすれば、すでに敗色濃厚で絶望的な状態での沖縄戦であり、ひたすら国体護持のための時間稼ぎの作戦を想定しての戦闘であった。そのために、水際作戦を採用せず、いったんは米軍を懐深く入れてから反撃を開始する作戦を採用した。

沖縄戦は一貫して地元住民を巻き込む形で行われた。対馬丸の悲劇で知られる学童疎開とて、戦闘の足手まといになるという視点から老人、学童を台湾、九州に疎開させるというものであった。その疎開計画は10万人で、沖縄へ新たに配置された兵員の数とほぼ符合する。旧日本軍の伝統的な戦略であるところの補給を確保しない現地調達主義とも符合する。
 沖縄戦の最大の特徴は、住民が住む地域で戦闘が繰り広げられたということである(しばしば「国内で唯一の地上戦闘」という表現がなされるが、実際には硫黄島の攻防もあり唯一ではないが、地元住民が存在したということでは唯一ではある)。そのことは旧日本軍の死者は約65000人(沖縄出身者を除く)、米兵が約12500人、そして地元沖縄住民が防衛隊を含めて約12万人余という、圧倒的に住民側の数字が上回っていることでもあきらかである。それ以外にも台湾、韓国・北朝鮮籍の人々、それに宮古、八重山作戦に参戦したイギリス軍の犠牲者もいる。

多くの犠牲者が出た沖縄戦だったが、それは人的な犠牲だけにとどまらず、それ以外にも多くの犠牲を強いた。沖縄戦の最中、沖縄守備隊司令部の第32軍参謀長からは、「爾今軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ。沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」という具合に、沖縄の言葉を話すものはスパイと見なすなどと、徹底的に住民を威圧し戦争に駆り立てた。根底には沖縄固有の文化の否定もあった。
 アメリカ側の軍人は沖縄戦において仲間たちが多くの血を流したという意識があり、日本側の軍人筋には「これだけの悪条件で良くぞ戦った」という意識があり、そのはざまに、沖縄の戦後の複雑な事情と感情がある。