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ナイチャー

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内地人のこと。日本本土の人を沖縄では大和人(ヤマトンチュー)というが、ナイチャーは、そのもう一つのいい方である。
 沖縄の友人とこんな会話をした。
 「ナイチャーというのは、ヤマトンチューとどう違うの?」
 「ナイチャーのほうが軽いね。あっちの人、という感じ。ヤマトンチューとかヤマトゥーというと、差別感がかなりはっきり入ってくるようだね」
 「沖縄の人ってわりと差別が好きなんじゃない。本島の人は、宮古・石垣を差別し、宮古・石垣の人はまたその向うの島にいる人を差別するっていうじゃない」
 「それはよけいなお世話。キミみたいなヤマトンチューにそんなこといわれる覚えはないサ」
 「あ、いったな、この……何ていったらいいの、キミたちを差別するときに」
 「なんとでも勝手にきめてよ。ヤマトの人ってそういうの、うまいじゃない。外人、なんて言葉は沖縄にはないよ、ヤマトンチューだけだよ、あんな言葉使ってるのは」
 「外人はないけど、ヤマトンチューやらナイチャーはあるわけね」
 「しかしナイチャーっていういい方、近頃では何か親しみをこめて使われることが多いんだそうだよ」
 「そういえばさっき、キミはボクのことをヤマトンチューっていったな」
 「まあまあ、こういう話はてーげーにしておくのがいいサ」(杉山透)

沖縄の人は、初対面の人に「どこの人ねー」と聞くことがよくある。沖縄人どうしなら、どのシマ出身かということなのだが、県外であれば「ナイチャー」かどうかということになる。「どうして沖縄の人は、しょっちゅう『どこから来たの』って聞くんですか」と、見るからにナイチャーの友人がこぼしていたが、とりあえず沖縄の人は気になるのだ。そういえば沖縄に住んでいたあるヤマトゥンチューの人の名刺に「Don’t call me a Naicher!」と書かれていたのを見たことがあるのだが、結構嫌なもんかもしれない。しかし、今でも沖縄の人は、自分たちとナイチャーとを区分したがる傾向にある。
 個人的には、ナイチャーという言葉は、なんとなく差別的な意味合いがあると思っていたのだが、『沖縄いろいろ事典』(1992年刊)で堂々とナイチャーズ編と銘打って以来、一般的には若干の変化があるようだ。個人差もある。僕は、ヤマトゥンチュー、もしくはヤマトゥという言葉を敢えて使っていたのだが(「うちなー」と「やまと」という対等な関係が感じられたので)、人によっては、ヤマトンチューの方に差別的ニュアンスを感じる人もいるらしい。僕は、ナイチャーの方が「内地」と「外地」という琉球処分以後に登場した言葉が基にあると思うので、好きじゃない。あなたは、ヤマトゥ派、それともナイチャー派?
 今は結局使う人の気持ちで、その言葉が「差別」的か「区別」的になるのだろうが、肝心なところは、沖縄の人は自分たちはナイチャー・ヤマトゥンチューではないと明確に区別しているということだ。現在ウチナーンチュは、「日本国民」であるが、ナイチャー・ヤマトゥンチューじゃないというわけ。

しかし、最近は沖縄にも沢山のヤマトゥの人が住み着き、十分に現代の沖縄文化、生活の一端をになっているので、単純に「ウチナーンチュ」と「ナイチャー」に二分するわけにもいかなくなった。例えば、シマナイチャーという言葉は、かつては二つの意味合いがあった。ナイチャーがシマーナイズされた人と、シマー(シマの人、地元おきなわの人)だけどもナイチャーかぶれした人。でも今は、前者のシマナイチャーのニュアンスがほとんどである。ナイチャーという言葉に新たな意味あいが含まれつつあると思う。(新城和博)