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5・15

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1972年5月14日(沖縄県公文書館所蔵)

1972年5月15日、沖縄の施政権が、アメリカから日本へ返還された。その1年前から、わたしはコザ市仲宗根の通称「開放地」に住んでいた。そこは戦前は日本軍の乗馬訓練所で、マーウイ部隊と呼ばれて居たが、アメリカ軍が占領して、補給(サプライ)部隊に変わった。その補給部隊が撤去され、市役所や消防署が新設移転し、外国人用のホテルやアパートの多い一帯だった。

わたしは「非琉球人」とされ、3カ月ごとに那覇市の外人税務署に出向き、外人税を払わされた。そうして出入管理庁長から、「上記の者は琉球列島高等弁務官により在留を許可されていることを証明する」との『在留許可証明書』を発給され、指紋押捺して常時携帯を義務づけられていた。

5月14日は、街中が殺気だっていた。一夜明ければ「ヤマト」だから、みんな現金を信用せず、ともかく品物に換えておこうと、買い溜めに走っていたのだ。

「戦争でも始まるみたい」と、妻がおびえたような声を出した。石垣島に生まれ、教員資格を取るために沖縄本島へ来て、わたしと巡り合ったのである。14日は朝から機嫌が悪く、「嬉しそうね」と挑発して、「沖縄が日本のモノになる日だから」と言った。

そうでも言わなければ、精神のバランスが保てなかったのだろう。小学生のころ教師に「祖国復帰」を説かれ、日本地図を眺めて石垣島がどのあたりへ置かれるのか、興味しんしんだったという。出雲神話の国引きの話のように、島を引き寄せると思い込んだ。このことについて別な人は、「復帰の期待は雪が降ることだった」と打ち明けた。

日本への施政権返還がタイムテーブルに乗って、復帰運動を推進したインテリゲンチャたちの心の揺れも、微妙だったようだ。5月14日を大晦日のように過ごし、5月15日という新年をいかに迎えるか、思い煩ったことを後に聞かされた。

5・15を迎えるにあたり、わたしはジョニ黒を一ダース買い溜めして、妻から大目玉をくらった。しかし、後悔することの多い自分の人生にとって、「アメリカ世」から「ヤマト世」への世替わりを、生活者として沖縄で実感したことは、我ながら上出来だと思っている。