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久高島くだかじま

執筆者:

写真:垂見健吾

久高島は沖縄本島南部の知念ちねん半島より約6キロの東方海上にある。周囲約8キロ南北に細長く、最高標高は17・1メートル。流れる川もない琉球石灰岩からなる低平な小島である。水に乏しい島であったが、近年沖縄本島から海底送水され、各戸に水道が敷設されている。

戸数100戸余で全人口は238人である(2020年4月現在)。生業は漁業と農業である。昔から男は漁業、女は農業という伝統があり、現在でも農業は主に女性たちが担う自給的なものが主である。なお農地は島の共有になっていて一定年齢に達した者に農地が割り当てられる、いわゆる地割制の伝統が機能している。集落は南側にあり、畑地は北側に多い。

島への交通は佐敷町さしきちょう馬天ばてん港から連絡船が1日4往復しており、1時間弱の航程である(1998年当時1)。

島には小中の併置校がある。ちなみに1998年度の生徒数は小中合わせ11名である2。最近Uターンして漁業等についている若者もいるが、普通は高校進学で島を出るとそのまま他所で就職し帰島しないケースが多い。そのため過疎現象が続いている。

久高島の陸地は狭少で、食料になるような動植物は乏しいが、島の北東側には広大なイノー(礁湖)があり、魚介類が豊富である。そのためと考えられるが、2000年程前から人が居住していたことが貝塚の発掘調査で証明されている。現在畑地のある北側辺には魚介類採集時代の人々の生活跡と考えられる御嶽ウタキ、井泉、葬所等が点在している。

現集落は農耕開始後形成されたと考えられるが、現集落の最上位(北側)に古いムトゥ家(草分け家)があり、下方(南側)にその子孫たちが展開するという構造になっている。首里王府時代には最上位のムトゥ家群の東側に外間殿(ほかまトゥン)、西側に久高殿(くだかトゥン)という祭場が設定された。昔はこの両祭場を起点にして、外間集落と久高集落の二集落があったといわれている。現在でも両祭場を管掌する外間ヌル、久高ヌルという最高神女がおり、祭祀の上では外間側久高側と区分されている。なお1998年現在、久高ヌルは不在である。

久高島では魚介類採集時代から首里王府時代を経て現在までの時間(歴史)が、島という同一空間に刻印されている。首里王府から琉球開びゃくの地、五穀伝来の聖地として位置づけられ、国王や聞得大君きこえおおぎみの参詣がおこなわれた歴史があり、今日でも神高き島、聖地として尊崇されている。島人も聖地としての誇りを持って、首里王府時代に形式が整えられたと考えられる年中行事(年間二十数回)を伝統性豊かにしかも生活の中に機能した状態で続けてきた。しかし、近年の過疎化現象には勝てず、久高島で最も重要な神女就任儀礼であるイザイホー(12年毎の午年)が1978年を最後に中止になってしまった。そのため新たな神女就任者がおらず、年中行事を担う神女たちも減少している。現在では年中行事も省略化し、かつての伝統性は失われつつある。

【編集部注】

  1. 2022年現在は、南城市の安座真港からフェリーと高速船が1日に6往復、所要時間は15~25分
  2. 2022年4月現在、33名