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空手

執筆者:

写真:嘉納辰彦

沖縄県はかつて琉球王国を形成し、中国はじめ東南アジアの国々、朝鮮、日本と盛んに交易や文化交流を展開した。琉球国は耕地も狭く、資源も乏しかったので、主に周辺の国々と友好親善関係を築き、中継貿易を行なった。しかし、倭寇の脅威や海外で身の危険に遭うことも多く、生命と財産を守る必要があった。
 さらに小さな独立国にはしばしば外圧が加えられ、それに耐える中から護身術「手(ティー)」を生みだした。そして周辺諸国の武術にも学び、「手(ティー)」を母体にやがて理想的な武術である空手を完成させた。しかし、明治の初め頃まで空手は門外不出の武術であり、ほとんど外部に知られることはなかった。

空手が一般に公開されたのは廃藩置県いわゆる琉球処分(1879年)以後のことである。
 新しい教育制度や徴兵制がしかれると生徒たちの体格検査が実施された。その時、秘かに空手を習っていた生徒たちの体格が際立って立派であることが判明、校医や軍医が体育的にすぐれていることを確認した。その後、県立第一中学校や県立師範学校などで体育として採用された。また、劇場等でも空手の演武会が開催されるようになった。
 沖縄県内で盛んになった空手が県外に紹介されたのは大正5、6年頃で、さらに同11年に東京で開催された文部省主催の「第1回運動展覧会」に沖縄県からふなこしちんが派遣された。彼は任務終了後もそのまま東京にとどまり、空手の指導に情熱を傾けた。他に何人かの沖縄空手家が普及のために上京した結果、全国的に普及発展が図られた。
 一方、海外へは昭和2年にけんつうハワイで紹介したのに始まり、昭和9年みやちょうじゅんがハワイの洋園時報社の招きで空手の指導に赴いた。戦後は沖縄に駐留した米軍人、軍属関係者が空手を習い、帰国後アメリカ各地で教え、また地元沖縄からもアメリカやヨーロッパ各国に普及指導に乗り出した。

空手は鍛えれば全身が武器になる武術である。技は手技、足技、手足以外の技に大別される。また「受ける」「突く」「蹴る」「体をかわす」などの基本動作があり、これらの動作を連続的に組合せて型(形)が作られる。沖縄の伝統空手は「型に始まり、型に終わる」といわれる通り、今日でも型の修練に重点がおかれている。現在、ナイハンチ、サンチン、クーサンクーなど約40種類の型がある。昔はショウレイリュウショウリンリュウの二流派のみであったのに対し、戦後は四大流派(ショウリンリュウゴウジュウリュウマツバヤシリュウウエリュウが生まれた。現在では50を越す流派・会派があってさらに細分化の傾向にある。
 空手の特徴は「いつでも」「どこでも」「誰でも」場所や道具なしで手軽に出来る点にある。空手の稽古を始めると、身体が強くなり、精神力が養われ、物事に動ぜず、自信と勇気が湧いてくる。空手はただ単に喧嘩に強く、試合に勝つだけではない。日頃の厳しい稽古で心と体を鍛え、礼儀正しく、心のやさしい立派な社会人を育成するためのものである。