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片降かたぶ

執筆者:

写真:垂見健吾

移住した当初は窓を開けるたびに、誰かの歌じゃないけど「思えば遠くへきたもんだ」と妙に感じ入ったものだった。窓の外はお隣りさんの庭。サワサワと南風に舞う芭蕉の葉。真っ青な空に向かってスコーンと一直線に伸びるたわわに濃い緑の実をつけたパパイヤの木。そして庭の塀を覆い尽くす原色の花々。それはもう見事なまでに南洋そのまんまの風景だった。
 だが、そうした風景はときに島流しを連想させるほどに気持ちの奥底をぐったりさせた。なんせ、重度沖縄病に感染した妻から「沖縄に移住しなければ離婚!」と迫られ、何の展望もないまま別居こわさで那覇に移り住んでしまったからである。
 妻は早々と仕事を決め、家には不惑の歳を目前にした無職同然の男が残された。

「これからいったいどうなるのだろう・・」

南国のブルーな空はますます気分をブルーにさせた。窓の外に広がる鮮やかな青と緑を眺めながら、ふだんめったに考えることのない人生について思いを巡らせたり、つい物思いにふけってしまうこともしばしば。
 ところが、そんな悶々とした気分を「そうはさせじ」といきなり判断中止状態に追い込むのが、この島特有の「片降い」と呼ばれる雨なんですね。それはフイにやってくる。
 晴れあがった空に急速に暗雲が立ちこめると同時にヒンヤリとした一陣の風が吹き上げ、芭蕉の葉がカチャーシーを舞うがごとくワッサワッサと揺れ始めたかと思うと、突然バスタブをひっくり返したような豪雨がドバーッと降り落ちてくる。
 そうなると無職人生悶々男も悩んでいるヒマなどない。てんやわんやの大騒ぎで、まずは布団を取り込み、お次は洗濯物。ヨレヨレ靴下の穴が広がろうが、古女房のLサイズパンツが伸びようが、むりやり洗濯ばさみから引きちぎって、このやろうとばかりに部屋に投げ入れる。とにかくその雨量たるや、洗濯物を取り込んでいるわずか数分の間に下着までずぶぬれになることもあるほど。

しかし、片降いとはよくいったもので、雨が降っているのはごく限定された地域なのである。数百メートル先は亜熱帯の濃い青空が広がっているなんてのはザラで、地元の人は「太陽雨ティーダアミ」といったりもする。
 そんな天空を雨雲はあっという間に駆け抜けていくのだが、問題はその直後。すぐに太陽が顔を出してカーッと皮膚を焦がすようなバキバキ光線が照りつけるものだから猛烈に蒸し暑くなる。夏はこんな気象現象が日に何度もある。
 これは車に乗っているとより顕著にわかる。ワイパーもきかないぐらいにどしゃ降りだったのに、突然ウソのように雨が消えて晴れ間が現れ、しばらく走るとまたどしゃ降り、さらに数分後晴れといったことがよくあるのだ。また、走行車線の路面が濡れているのに、中央分離帯を境にして、対向車線が乾いているというのも珍しくない光景。

このように片降いは、まことにもってメリハリのある短期集中局地決戦型の降り方を見せてくれるのだが、無職悶々男には、雨が上がると再びベランダに出てせっせと洗濯物を干し直すという仕事が待っている。
 これだけクルクル変わる天気の下で暮らしていると、さすがに気が滅入るヒマもなくなる。そうしていつのまにか、窓の外の芭蕉の葉のように風に吹かれるままのナンクル人生を歩んでいけるようになった。これを僕は「片降いセラピー」と呼んでいる。