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アコークロー

執筆者:

写真:垂見健吾

「明るい」と「暗い」をつないで、その中間のイメージを誘いだし、「夕暮れ」の意味にした言葉。

似たつなぎかたで「ウキニンジ」(「起き(覚め)・寝る(眠る)」)は「うつらうつら」のこと。「ヤファラガンジュー」は、「柔らか・頑丈」で「一病息災」といえばよいか。「ヤファタイガンジュー」は似ているが、少しニュアンスが強く、「死にそうで死なない」こと。
 「トゥンタチヰー」(腰を落として、尻をつけず、膝に腕をおいた姿勢で、「跳び・起ち・坐り」と3つのイメージをつないでいる)。「うずくまる」に似るが、より動的で、日本語に訳しにくい。

これらは状況をあらわす表現だが、行為をあらわす表現に、次のようなものがある。
 「ワラーランワレー」(笑いたくないのに、無理に笑う)
 「イチカランイチチ」(生きていくことができそうにないのに、がんばって生き抜くこと)
 「カマランカミ」(食いたくないのに、無理に食うこと)
 「イララン・ミー・ンカイ・イーン」(しいて直訳すれば、「はいれない・穴・へ・はいる」だが、無理に強行して、後戻りできない皮肉な行動をしてしまったときに使う)

以上は、きわめて日常的な用語だが、沖縄の人はよく、これらをヤマトグチではどう言うか、と質問を発する。
 これらの表現の基礎には、沖縄人の物事の認識方法に、物事をまるごと(表も裏も、内も外も、向こうも手前も……)一挙に掴みとろうとする――偏りや狭い固定化を嫌う複眼の美学が伴っているものと見られ(「テーゲー」(大体、適当)の語が好まれるのも、そこに由来するだろう)、ヤマトにそれがなく(たぶん、「曖昧」を嫌ってすべてを合理的に割り切ろうとする認識方法が好まれ)、基礎的な認識方法、美学に差があるから、訳せないのだと思う。

「アコークロー」は「たそがれ」と訳してしまえるが、指している対象は同じでも、イメージの出発は異なるというべきだろう。さらにいえば、この語は古来、夕暮れどきのそこはかとない不安をともなうものと解されていて、その点では「逢魔が時おうまがとき」という日本語に共通するといえる。ただ、この感覚は現代的照明のなかでは理解しがたいものになったかもしれない。