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薩摩侵入さつましんにゅう

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1879年5月24日付團團珍聞に掲載。「中国の足を引っ張って「琉球の巨像」を独占しようとしている日本」というキャプションが付いた漫画

1609年、琉球王国はそれまで善隣友邦関係で通交していた薩摩藩島津氏により、侵略された。この事件により、琉球はそれまでの独立した政治体制から、江戸幕府や薩摩藩の支配下に入れられ、しかし一方では中国との間では国同志の交易も継続されるという立場に置かれる。

その原因は、江戸幕府・薩摩、そして琉球とさまざまにあるが、まず、徳川政権以前の豊臣秀吉の琉球および朝鮮・中国への対外侵略政策にさかのぼる。秀吉は、日明貿易の復活交渉の不成功により、明国への侵略をめざすようになる。しかし、秀吉の死によって、その対外侵略政策は失敗した。その後政権をにぎった徳川家康は、秀吉の政策により破たんした日明関係の改善と、中国明との貿易復活をめざした。そこで利用されたのが琉球である。家康は、1602年の伊達領内への琉球船漂着送還の御礼使者の派遣を、島津氏を通して琉球へ要請した。以後、1608年まで、琉球の地での対明貿易を望む江戸幕府の強い意志と、漂流の御礼使者の派遣をめぐって、薩摩と琉球の交渉は続く。が、島津氏は1608年の半ばから、侵略も視野に入れた強行策にでる。1609年2月が穏便な交渉の最後となった。

その侵略過程は、3月4日の山川港出港に始まり、7日には笠利、8日には大島制圧、22日には徳之島制圧、24日沖永良部島、27日には今帰仁城が焼かれ、29日には読谷大湾から上陸し、ついに4月1日、首里に到った。3日には尚寧が首里城を出、城は島津軍に接収された。久米島・先島は5月5日までに帰順の意を表し、16日には人質としての尚寧以下三司官の浦添、謝名らを乗せた船が那覇港を離れ、薩摩へ向かった。そして7月7日には、家康により薩摩は琉球の統治を認められたのであった。

以後の尚寧は、1610年5月に、家康のいる駿府、その後江戸へ向かう。その待遇は朝鮮使節に準ずる、外交使節と同等の扱いであった。これが琉球使節の江戸上りの基になっていく。12月に薩摩にもどった尚寧は、浦添親方らと共に、翌1611年9月に、琉球に対する統治方針を了承し、琉球へ帰ってくる。しかし謝名親方は、統治方針を了承せず、斬首された。以後、琉球は奄美大島等の道の島を薩摩に奪われ、また検地によって、琉球の領地は89086石とされ、上納物として芭蕉布他が科せられた。掟十五ヶ条による幕藩体制下の支配の貫徹も行われた。幕府の対明交渉は表向き失敗に終わるが、一方で、幕府と島津氏は琉球の進貢貿易に干渉するようになり、琉球も進貢の財源を両者に依存せざる得ない状況となる。それは琉球藩となり、1875年に明治政府により禁止されるまで維持された。