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ケラマジカ

執筆者:

写真:嘉納辰彦

私の父親の島は「慶留間げるま島」という、小さな島だ。沖縄の人でも、その名前を知らない人が多い。座間味ざまみ村にある有人島のうち、一番小さい島で、空港が隣の無人島に出来て、98年には隣の阿嘉あか島との間に念願の橋も掛かったが、相変わらず小さい。

私が子供の頃(60年代後半から70年代前半)はお盆にあわせて、おじぃおばぁの家に泊まりに行った。5分もあれば集落をひとまわり出来て、きれいな海以外なにもない。泳ぎの下手な私は、結構退屈していた。私の住んでいた那覇に比べて圧倒的に寂しかったのだ。その中で印象的だったのが、近所でケラマジカを飼っている家があったことだ。親に連れられてよく観に行った。島にシカがいるのは知っていたが、その頃は野生のシカをみたことはなかった。馬小屋のようなところに、静かにジッと佇んでいるのがケラマジカというのが、当時のイメージである。私の母は、渡嘉敷とかしき島出身なので、夏休みの残りは渡嘉敷島にいたのだが、そこではケラマジカをみることは出来なかった。

そもそもケラマジカは、17世紀頃にヤマトから慶良間諸島の無人島に移入されてきたらしい。ニホンシカの中で唯一亜熱帯地方にいるのが、ケラマジカなのだ。確かにシカは、沖縄的じゃないなーと思う。でも彼等は見事生き延びて、慶留間島、阿嘉島、屋嘉比やかび島(無人島)、座間味島、渡嘉敷島などで生息してきた。彼等は海を渡ることができたのである。畑の作物へ被害を及ぼすとして、渡嘉敷島や座間味島などの人口の多い島では大正から昭和にかけて捕獲され、ほとんどいなくなってしまったが、無人島や人口の少ない慶留間島や阿嘉島で生息していたのだ。そしてあの沖縄戦も生き延びた。慶良間諸島は、沖縄島に先駆けて、アメリカ軍が上陸し、沖縄戦が始まったところである。

その後、おじぃ、おばぁも亡くなり、トートーメーが那覇の自分の家にやってきたので、島に行く機会がグッとへった。ケラマジカの話も、個体数が激減しているとかいうニュースを聞くぐらいで、あの慶留間島で飼われていたシカもいなくなっていた。父も亡くなってしまった。私と慶留間島との距離は、シカも渡れないほど広がっていたかも。

再び私がケラマジカと出会ったのは、91年のことだ。友達が偶然にも慶留間島の小中学校の先生になったのをきっかけにして、ちょくちょく遊びにいくようになったのだ。島は少し変わって交通の便も良くなっていたが、相変わらず何もなかった。でもだからこそ素晴らしい島であることがよく分かった。透き通った海と小さな浜、切り立った崖に山、そして遠く深く広がる空。子供の頃には、当たり前すぎて気づかなかった全てがあった。学校の秋の運動会に参加するために来た私は、その夜、島の知り合いのニーニーに「シカ見に行くか?」と誘われて、車で隣の飛行場のある島に連れていかれた。飛行場は台地状の島の頂上にあるのだが、そこへ至る急な坂道の所々に、ケラマジカはいた。こんなに間近に野生のシカが見られるのはちょっと意外であった。静かに近づくとこちらを振り向いた。眼の奥が光る。丁度繁殖期なので、雄が雌を求めてうろうろしているのだ。そういえば、夜になると時折、山の中から「ケーン、キョーン」と鋭い甲高い声がしていた。小さい島だからこそ、海を隔てているからこそ、彼等は生き延びてこれたのだろう。

再び慶留間に通い始めた春、那覇へ戻る連絡船の上から、慶留間島の集落とは反対方向の裏の浜に2匹のシカを見つけた。子供のシカのようだった。バンビだ、バンビ。浜で遊んでいるのか。それとも船を見送っていたのか。私はちょっと感動してしまった。だから私は同じケラマジカだけど、彼等を敢えて「ゲルマジカ」と呼びたいのである。