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写真:垂見健吾

沖縄のロックはアメリカやイギリスのコピーから始まった。聞き手としての米兵たちと、アメリカ文化が身近にあった沖縄の若者が求めたものである。60年代半ばから70年代にかけて、アメリカの音楽シーンに合わせるように、演奏する曲も変わっていった。

このような音楽状況の中で、イギリスのディープ・パープルが登場する。ジョン・ロードのハードロックとクラシックを融合させた音楽性に、ジョージ紫は強い共感を持つ。それがオキナワン・ロックの骨格と言えるサウンドを生み出していく。

彼が率いる紫はディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」「スモーク・オン・ザ・ウオーター」などをコンサートで演奏する。それがすごくかっこ良いので、その後に続くバンドの課題曲のようになった。

ディープ・パープルサウンドの延長線上に、紫は「ダブルディーリング・ウーマン」「ドゥー・ワット・ユー・ウォント」などの名曲を作り出す。ベース、ドラムが8ビート、16ビートをハードに刻み、ボーカルがシャウトし、ブルースの香りをただよわせてギターが疾走し、キーボードがメロディアスに全体を包み込んでいく。沖縄オリジナルのロックの誕生だった。彼等の曲は、米兵の支持を得た。

そして、1975年8月8日、大阪万博跡地で行われた「8・8ロック・デー」で、日本デビューを果たし、観客を総立ちにさせた。そうそうたるプロ・アマバンドが出演したコンサートで、そのライブを納めたアルバムは沖縄のロックファンに痛快なものであった。1枚のアルバムで、沖縄と本土のバンドが初めて聴き比べられたのである。一瞭然とでも言おうか、理屈では負ける本土のファンに、どーだ、と胸を張りたい気分だった。

翌年のファーストアルバム「MURASAKI」は、ロックは売れないと言われた時代に5万枚のセールを記録し、1978年の解散まで、トップバンドとして活躍した。

紫解散後、メンバーの一部がオキナワを結成。「マジック・マウンテン・ウェイ」などのハードロックの名曲の他、沖縄の旋律を取り入れた「フライ・アウェイ」などでオキナワン・ロックの幅を広げた。

紫は、1983年一時的に再結成、1986年の「ピースフルラブ・ロックフェスティバル」でオキナワとして最後のプレイの後、新生の紫として再登場した。しばらく音楽活動を続けたが、やがてメンバーそれぞれの指向する音楽へ分裂していった。

その後は、何かの機会にオリジナルメンバーによる演奏があり、ファンを喜ばせている。

現在でも、紫のアルバムはロックの名盤として復刻されていて、「NHK音楽情報」によれば、9枚のアルバムが記録されている。1

【編集部注】

  1. 2016年、デビュー40周年記念アルバム「QUASAR」が発売された。2023年現在、1月に封切られたドキュメンタリー映画〜MURASAKI〜」が全国巡回上映中。