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謝花昇じゃはなのぼる

執筆者:

写真:嘉納辰彦

謝花昇は、慶応元年に東風平こちんだ間切まぎり東風平村167番地に父勝太郎の長男として誕生しました。幼少の頃から頭脳明晰で忍耐力があり、かつ負けじ魂の持ち主で、明治14年7月には師範学校へ入学しました。翌年の10月には県費派遣生の5名の中の1人として選抜されましたが、謝花昇だけが平民で、他は士族の出身でした。

謝花は学習院大学の中等科に入学し、東京山林学校を経て、東京農科大学に進み、明治24年7月に卒業、沖縄最初の農学士として故郷に錦を飾りました。その年の9月には沖縄県技師となり、勧業事務に従事し共進会や博覧会、砂糖審査会の開催、土地調査委員長に就任、現品納税制度から貨幣制度への改善、さらに農工銀行の設立など多くの功績を残しました。

このように謝花の熱誠と事務的手腕は着々と実績を上げ、県民福利に大きく貢献したのですが、一方で開墾政策を進めようとする当時の奈良原知事と、開墾政策は将来県民に大きな不利を及ぼすとして対立していきます。それが杣山そまやま開墾問題です。その後、謝花は県民参政権獲得の運動を展開すべく、官界を辞職して野に下り、沖縄倶楽部を結成して、自由と平等と人道の理想をかざして決起しました。同志とともに県民の生活状態を訴え、全財産を投じて参政権獲得運動を展開しましたが、数年も続けていく内に資金も使い果たし、自身も神経衰弱を起こし残念至極にも実現できませんでした。明治41年10月、中秋の落陽とともに43歳の若さで死去。

参政権が確立したのは、4年後の明治45年のことです。

その後、謝花昇の名は階級打破の象徴となり、出世の代名詞にもなりました。東風平謝花の愛称で知られ、自由民権運動の先駆者、民族的英雄として伝えられています。町役場裏には昭和39年造の銅像1が建立されています。

【編集部注】

  1. 銅像は平成21年11月、八重瀬町東風平運動公園内に移設された。また、同町立具志頭歴史民俗資料館には謝花昇展示室が設けられている。