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1号線

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沖縄県公文書館所蔵

本土復帰以前、沖縄本島の文字どおり大動脈をなしていた幹線道路。那覇市から名護なご市を経て国頭くにがみ村に至る120キロ余に、ほとんど全ての軍事基地、施設及び市街地等を連ねていた。特に那覇~名護間約65キロは軍道(軍管理道路)であり、米軍の通行権が優先していた。現在はほぼ同じ区間に、さらに海上を経て奄美大島及び種子島、鹿児島に至る主要国道58号として管理されている。

戦後、沖縄では、朝鮮戦争を機に、各地で恒久的な基地の建設が始められた。米軍はこれらを連ねるように1号線を整備し、軍管理下においた。旧街道を整備したものが多かったが、基地との関係で集落を移転させたり、その中央を分断したケースもある。人々は居場所を失い、基地周辺に集まり住んで、軍の作業等に従事しながら暮らしを立てた。つまり、暮らしの場は1号線沿いに集中していた。
 しかし、生活道路どころか、非常時の軍用機の離着陸を想定して、分離帯すらなかった。バカでかい軍事車両が往来するため舗装等もいい加減で、アメリカ風に道路の端の方は土がき出しだった。

沖縄は雨の多いところである。大きな水たまりが至るところにできていて、暗闇ではしばしばその中に足を突っ込んだ。当時から街中は夜の明けるまで賑わっていた。1号線はその賑わいの海を真二つに分けて流れていた。あちこちに直角に止めてある外車の間から、それをほろ酔い機嫌で向こうへ渡るのである。米国施政権下にあって命の保証はなかったから誰もが結構すばしこかった。

その1号線も本土復帰により日本国に移管され、さらに1978年7月30日、全ての車線が右側から左側へと移り、完全に国道58号にバケてしまったのである。キッチリ歩道や街路樹も整備され、他と変わらぬ日本の道路である。巨大な軍用トラックの替わりに、今やピカピカの乗用車の群と大型リムジンバスが行き交い、都市と都市、空港とリゾートを結んでいる。
 かつて、大抵のウチナーンチュの人生がこの1号線のどこかに滞り、結局はそれからほとんど一歩も離れられずに青春を過ごした者も少なくなかったことなど、今や夢のようである。