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ぬちどぅたから

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「命こそ宝」という意味で、沖縄戦の最中に難民の一人によって叫ばれたとも伝えられ(大城将保『沖縄戦を考える』ひるぎ社)、1950年代に伊江島土地闘争のスローガンとしても用いられたが、1980年代の反戦平和運動のなかでひろく流行、普及した。

語源は尚泰王作の次の琉歌からきているといわれてきた。

戦世いくさゆんまち弥勒世みるくゆんもやがて なじくなよ臣下しんかぬちどぅたから

ただ、この所説には疑問がある。琉歌集が古来七冊(写本を除く)あるが、そのうちこの歌を載せたのは、1932年(昭和7)9月刊行の喜納きな緑村編『琉歌註釈』だけである。(清水彰編著『琉歌大成』沖縄タイムス社刊参照)

初出は山里永吉作の戯曲『那覇四町昔気質』(初演1932年3月)で、作中、琉球処分で首里城を明け渡した尚泰王が東京へ行く船に乗ったところでこの歌を読み、幕が下りる。主演俳優の伊良波尹吉いらはいんきちが作ったと思われるが、これを尚泰王作と誤伝したものであろう。

とはいえ、語源こそ疑わしいが、この語が沖縄で喧伝されるには、それ相当のリアリティーがある。歌のかぎりでは、「嘆きのあまりに健康をそこなうなよ」と解すべきだろうが、歴史に照らせば、この一句だけがひとり歩きして、「命がけの忠誠心を否定する」意味に変わってきたものと解することができるからである。

沖縄の歴史では、土地の原始共産制が私有制に発達しないうちに薩摩の植民地支配に突入したために、土地の寡占とそれにともなう武士階級の発生を見ることなく、したがって武士道が生まれていない。近世の領主たちは、みな首里の城下に住んでいて、領地には代官としての地頭代じとぅでーをおいて糧米を取り立て、しかも、身分が昇進するたびに領地が替わったから、領民との精神的な接触がなかった。領民は共同体の神への供物は意識したが、領主への忠誠心を育てられることがなかった。「物呉むぬくいしどぅ我御主わーうしゅー」という言葉は、第二尚氏金丸の革命のさいに発生したと伝承されていて、「住民の生活を安定させるものこそ君主としてふさわしい」という思想のあらわれである。

近代の皇民化思想、軍国主義が育つにつれて、「物呉いしどぅ我御主」は否定すべき事大主義だと誤解されるようになり、「上がり太陽あがいてぃーだどぅうがみゅる」とともに、反米・祖国復帰運動のなかでも否定されることがあった(1950年代のうちは、アメリカの占領体制が物質的に崇められる側面があったから)が、しだいに民主主義の表現だと修正されるようになった。

「ヌチドゥタカラ」と「物呉いしどぅ我御主」は、近似の思想をもつ言葉と考えてよい。