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冊封使さっぽうし

執筆者:

首里城祭での冊封使行列の再現
写真:垂見健吾

さっぽうし、さっぷうし、さくほうし、さてさてどちらが正しいか。答え、どちらでもよい。学問的には「さくほうし」が厳密な読み方。さくほうずる、つまりある一定範囲のテリトリーの主であることを認める、という中国の皇帝様が行う行為に由来する。

1372年、琉球の覇者は皇帝の権威を認めその家来となる思い切った外交上の選択を行った。そうすると、琉球で王が代わるたびに、その者を認知するために、言い換えるとその者を冊封するために、皇帝はわざわざ琉球に使節団(冊封使)を派遣した。団長や副団長などの主だったメンバーは北京で任命されたが、彼らは片道3000キロもの旅をして福建省の福州にたどり着く。そこで船を調達したり、人員を補強して、総勢500名に膨れ上がった一行が、あの東シナ海を横断して琉球までやって来た。

一行は那覇に宿泊し、3つのイベントに参加した。一つは前の王の霊が祭られている崇元寺そうげんじでの追悼式典(諭祭ゆさいという)。2つは新しい王のために首里しゅり城で挙行される即位式(冊封の儀式)。この冊封の儀式において、「汝を琉球の王として認める」という皇帝の言葉が中国語で朗読され、王は皇帝から贈られた冠と衣服をうやうやしく頂戴した。冊封使一行が乗って来た船を「御冠船ウカンシン」と琉球側が呼んだのは、このことに由来する。

3つ目のイベントは「七宴しちえん」(宴会が七回)と呼ばれた宴会である。御馳走が出るだけではなく、琉球芸能や中国芸能が披露された(中国芸能も琉球人が演じた点に注意)。芸能公演の主会場となったのが首里城であり、御庭(ウナー)と呼ばれる広場に仮設のステージを組み、そこで組踊りなどが上演されたのである。冊封使を接待するために発達した芸能という意味で、琉球の王朝芸能のことを「御冠船踊り」と呼ぶこともある。

冊封使を派遣した中国側も大変だったとは思うが、琉球側の苦労だって並大抵ではなかった。芸能班は特訓につぐ特訓で忙しかったし、新しい王も中国語の勉強をしなければならなかった。最大の問題は、とにかく金がかかったことである。そのために琉球側では何年も前からプロジェクトチームを作り、資金調達に苦労せねばならなかった。

何のために、そのように苦労する必要があったのか。答えはいたって明快である。中国との信頼関係を保持し、その関係を前提にして始めて可能となる貿易を推進するためである。その頃の対中国貿易は朝貢(進貢)貿易と呼ばれており、皇帝の冊封を受け、そのうえで臣下として朝貢するという関係を前提に成り立っていたからだ。