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亀甲墓きっこうばか

執筆者:

写真:垂見健吾

外形が亀甲状だから亀甲墓という。この墓は地元でカメヌクーとよぶが、沖縄のいたる所で見られ、大きさもさまざまである。中国の華南から影響を受けたとされ、わたしは広州から香港へ抜ける鉄道旅行をしたとき、沿線で同じ墓を見た。先祖代々の墓であり、それぞれの遺骨をがめに収めて並べる。小さな墓でも、中は6畳間か8畳間の広さがある。父系血縁のもんちゅう墓だから、他家へ嫁いだ女子が葬られることはない。

墓のポイントは、中央の地面近くの四角な穴で、ここから厨子瓶を入れる。デザイン的には、女性が寝そべって股を広げたかたちで、ポイントの穴は産道である。すなわち人は、死して生まれた道を通って帰る。

この母体回帰の墓は、じつに大らかな思想に支えられている。

旧暦3月のシーミーは、祖先供養の一大行事であり、墓前に集まった血縁集団が、吹流しの旗をなびかせて重箱料理を広げ、ビールや泡盛を酌み交わす。歌や踊りも披露され、墓前で血族の親睦を深める、楽しい行楽行事でもある。

太平洋戦争末期の沖縄戦は、わが国で唯一の地上戦の場となった。沖縄守備軍の司令部は、首里城址の地下にたてこもり、「洞窟戦法」と称した。しかし、アメリカ軍が沖縄島の中部西海岸から上陸すると、じりじりと島の南端に追い詰められた。このとき軍と行動を共にした住民には、亀甲墓が恰好の避難場所だった。

攻撃するアメリカ軍の目には、亀甲墓がトーチカとも映る。その通り日本軍は、防御陣地として利用し、四角の「産道」に銃座を据えた。そして包囲されると、みずからの避難場所にするために、中から住民を追い出して、息をひそめたのだった。

先ごろ会った沖縄の知人は、マイホームを持った喜びを語ったあとで、表情を曇らせて「まだ大仕事が残っている」と洩らした。何事ならんと耳を傾けると、次男である彼は、子孫のために亀甲墓を作らねばならない。お定まりの地価高騰で、マイホーム建設に準ずる経費を要するというのだ。