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照屋林助てるやりんすけ

執筆者:

写真:垂見健吾

テルリンの愛称で親しまれる漫談家1。1991年東京で漫談「ワタブーショー」が行われたとき、テルリンは舞台に上がるなり「林賢りんけんの父親です」と言って笑わせた。たしかに本土ではりんけんバンドのリーダーである息子の照屋てるや林賢が先に知られたが、テルリンの名は知らなくても水虫薬ポリカインのCMに出ている三線サンシンを弾くおじさんを見ている人は多いはず。彼がテルリン。ちなみにこのCMは91年度のCM大賞を受賞した。

テルリンと林賢の親子関係はいまどきめずらしいほど過激で、初めてふたりの喧嘩を見ると恐ろしくて身が縮むという。これだけ対等にやりあえるのはお互いの資質のちがいを認め合っている証拠でもある。「シーミー(清明蔡)のとき墓の前でカラオケをやろうと言いだした」「お盆のとき花火をたいてウークイ(送り)をした」など林賢からテルリンのエピソードを聞くとどちらが親かと思ってしまう。
 一歩引いて物を見るクールさを持った林賢に対し、テルリンは何にでも好奇心を示す天衣無縫な人。コメディアンのほかに台本作家、新聞の琉歌の選者、古典音楽野村流の師匠、催眠療法の研究家など、いろいろな顔を持っている。

テルリンがワタブーショーで一世を風靡したのは昭和30年代のこと。沖縄には琉球民謡、アメリカンポップス、本土の歌謡曲とさまざまなカルチャーが共存するが、テルリンはそれらをつぎはぎにし、混ぜ合わせ、パロディー化して独特のお笑い文化を作った。
 テルリンの芸の種は師匠と仰ぐ小那覇おなは舞天ぶーてん(1897~1969)によってまかれた。歯医者であり、漫談家であったこの人物は、沖縄に古くからある狂言をモダンに作り変えて新しい漫談を作った。終戦で虚脱状態にある人びとを生きているお祝いだと訪ね歩く彼に、テルリンは笑いの生命力を教えられたという。
 しかし若かったテルリンには舞天の漫談は古くさく感じられた。なんとかそこに流行の西洋音楽をとり込めないかと考えていたところ、「あきれたぼういず」で知られる本土のボードビリアン、川田晴久が沖縄公演に来て、これだ、とひらめいたという。
 ワタブーショーによってテルリンが開いたパロディーの世界は、若い世代にバトンタッチされている。笑築過激団2の座長、玉城たまきみつるはテルリンから学んだパロディー精神が一番勉強になったと語るし、音楽を聞かせるだけでなくショーアップしたステージを見せるりんけんバンドのコンサートにもワタブーショーと一脈通じるものがある。ウチナー・パロディストの元祖と言っていい。

【編集部注】

  1. 照屋林助(1929~2005)。
  2. 1983年、沖縄市で結成された演劇集団。