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ユースカー(USCAR)

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USCAR庁舎屋根の上のクリスマス・ツリー(沖縄県公文書館所蔵)

一般には「米民政府」として知られているが、正式には「琉球列島米国民政府」(United States Civil Administration of the Ryukyu Islands)という英文の頭文字をとってUSCARと称された。

1945(昭和20)年3月26日、米軍は、諸島の阿嘉島に上陸すると同時に米国海軍軍政府布告第一号(ニミッツ布告)を公布し、(北緯30度以南の)南西諸島における日本の行政権及び司法権を停止し米国の軍事占領下に置いた。その後、1950(昭和25)年に米極東軍司令部は、「琉球列島米国民政府に関する指令」を発し、従来の米軍政府を米民政府に改めた。同時に米極東軍司令官のマッカーサー元帥が琉球列島民政長官に就任した。しかし、実際には在沖米軍の最高指揮官が民政副長官として統治した。

米民政府は、「軍事的必要の許す範囲内」で住民の経済的、社会的福祉を増進させるべく、ガリオア資金を使って住民の生活水準を戦前並に引き上げようと図った。米本国に財政負担をかけないで財政の健全化を図る狙いからであった。

米民政府は、タテマエでは民主主義の原則に基づいて政治、経済、文化、教育の発展を図るとしながらも、現実にはその機能は、軍政府の場合とほとんど変わらなかった。ちなみに1952(昭和27)年に米民政府は、立法、行政、司法の三権からなる琉球政府を設立した。琉球政府は、琉球における政治の全権を行使することができる、とする一方、「ただし、米民政府の布告、布令および指令にしたがう」とか、「米民政副長官は、必要な場合には、琉球政府その他の行政団体が制定した法令規則の施行を拒否、禁止、または停止し、自ら適当と認める法令規則の公布を命じて琉球における全権を自ら行使する権利を保障する」と布告で宣言していた。その結果、民主主義を原則とするはずの琉球政府の権限は「有名無実」に終わった。