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軍作業

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琉球政府による軍作業視察(沖縄県公文書館所蔵)

「基地労働」のことを沖縄では「軍作業」と呼んでいるが、この由来を説くには、沖縄の戦後社会の成り立ちの特殊性から説き起こさねばならない。

第二次大戦の敗北は1945年8月15日だというのが「日本」の常識だが、沖縄の民衆にとっては同年の4月からなしくずしに(個人が別々に)、捕虜になるというかたちではじまった。かれらにとっては支配者が日本軍から(捕虜収容所の)米軍に移っただけであり、日本軍部隊と米軍部隊とは、服装と言葉が違うだけで、住民が人事異動に乗ったようなものだといってよかった。住民の集落がほとんど無に帰していて、島全体が米軍の占領地になったから、とくに「基地」と呼ぶ必要はなく、米軍の集団のことは日本軍時代と同じく「部隊」と呼んでいた。

捕虜収容所では、米軍が捕虜を組織して、いろいろの作業をさせた。食わせるかわりに報酬はない。これが「軍作業」のはじまりである。収容所から各自の市町村へ解放されたあとの、就職としての軍作業には賃金が出るようになった。

民間社会の復興はかなり遅れた(たとえば、住宅で終夜点灯になったのは、戦後10年目の1955年である)から、軍作業の賃金水準は比較的に高く、また軍需物資横流しの恩恵もあり得たから、戦後5年間ほどは教師から軍作業へ転職する者も多かった。

ついでながら、米軍物資の窃盗のことを「斬り込み」といい、その成果物のことを「戦果」と呼んだのは、日本軍時代の名残の用語で、罪の意識をともなわないものである。

1949年に中華人民共和国が成立すると、米軍はあらためて大規模な戦略基地の建設にかかった。そして、1960年に近くなってから、「基地」という言葉が定着しはじめた。軍作業は沖縄の産業構造のなかで膨大な地位を占めるようになり、基地経済依存あるいは脱却という言葉も流行した。米軍政が1958年に通貨をB軍票から米ドルに切り替えたのは、軍作業によるインフレーションを避けるためだとも言われる。

しかし、戦後まもない頃こそ軍作業は経済的に潤ったが、いくら忠誠をつくしても重役になれないサラリーマンで、生産の誇りをもてず、ベトナム戦争では加害者としての精神的負担もあった。そして、民間社会が発展する間にも軍作業の労働条件は差別的で、そのために1960年には軍作業員のなかに労働組合がはじめて組織され、1963年7月には全沖縄の組織としての全軍労が生まれた。ただ、その種の労働運動自体を米軍は共産主義運動だとみなしていたから、組合結成には非常な困難があった。その歴史は「全駐労沖縄前史」として十分に認識されてよい。