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多良間の八月踊り

執筆者:

写真:嘉納辰彦

多良間島は宮古島と石垣島のちょうど中間にある島で、隣の水納島と合わせて多良間村をつくっている。その多良間島で毎年旧暦の8月に3日間かけて行われる豊年祭のこと。かつては八月御願(うがん)と呼ばれた。島に生きる人々は、ある瞬間になるとみごとなまでの芸能人に変身するのだということを、徹底的に教えてくれたイベントであった。

島には仲筋・塩川という2つの集落がある。祭の初日になると仲筋の人々は多良間神社・運城(うんぐすく)御嶽・泊御嶽の3カ所に、塩川の人々は嶺間御嶽・塩川御嶽・普天間御嶽の3カ所にそれぞれ一年の豊作を感謝する。その後で仲筋の土原(んたばる)ウガンをステージとして、仲筋の人々がさまざまな芸能を上演するが、その際のお客さんは塩川の人たちである。2日目は塩川のピトゥマタウガンがステージとなり、仲筋の方々を招待して塩川の人々が芸能を披露する。3日目は「別れ」と称して仲筋・塩川それぞれで芸能を演じて楽しむ、という実にみごとなコンセプトの豊年祭である。むろん、島外から専門の芸能者を呼んで行うのではなく、多良間の善男善女がこの日に備え鍛え上げた多彩な芸を披露する。
 島一大のイベントを挙行するために、経理担当、衣装・小道具担当、音楽演奏担当、若衆踊り・女踊り担当、二才踊り担当、組踊り担当、獅子舞・棒踊り担当、狂言・寸劇担当といったチームが組織されるが、その練習や段取りはすごい。そして、ある日はみずから演じ、別の日にはりっぱな観客に早変わりする人々のマルチ型バランス感覚の良さに脱帽してしまう。何日か前、野球に興じていたはずの中学生が、土原ウガンで晴れがましく踊っていたあの光景が今でも忘れられない。

宮古地域の中心都市、平良で地元の友人たちと酒を飲んでいると、同じ宮古でありながら彼らは多良間を一味違う存在と捉えていることを感じた。伝統文化プンプンの島、というイメージなのである。その最大のイメージ発信装置が八月踊りである。宮古にはもともとなかった組踊りをはじめとする首里・那覇系の芸能が、多良間で誇らしく演じられており、そのような芸能シーンが宮古のなかの多良間カラーを彩っている。

多良間島の人々はこう説明する。「琉球王朝の時代、芸能を身につけた文化人タイプの首里・那覇の人々が多良間に島流しで送られた。そのせいで、多良間に八月踊りの芸能が誕生したのだ」、と。しかし、私は少しばかり多良間の歴史を勉強しているので、その説明が正しくないことを知っている。記録で見るかぎり、多良間に流刑となった人々のほとんどは宮古島など宮古の他地域の住民であり、首里・那覇人が流されたケースは例外的なのである。
 では、八月踊りの芸能はどうして多良間に伝わったのか。実はこの疑問の答えはむつかしく、現在もまだ正解はない。教養を積んだ文化人ではあったが、役人の仕事がないために宮古・八重山航路の民間商船の船乗りとなった首里・那覇人が伝えたのか。あるいは、首里・那覇に出張する機会の多い多良間ゆかりの役人たちが伝えたのか。
 ところが、そんな些細な問題に頭を悩ませている歴史家の存在などはおかまいなしに、八月踊りは淡々と、そして熱狂的に展開する。「誰が持ってきたかは知らないが、それを繰り返し演じ続けてきたオレたちの真のパワーをまずは見てくれ」、そう教えられたような気がする。