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大田昌秀おおたまさひで

執筆者:

写真:嘉納辰彦

「沖縄は日本ですか」。村山富市首相(当時)が、米軍用地強制使用に向けた署名代行の方針を表明した夜、県知事の大田はテレビカメラに向かって声を荒げた。福岡高裁那覇支部で開かれた代理署名裁判では「安保が重要というのなら、どうしてその責任を全国民で負担しないのか」と、沖縄だけに過重な基地負担を強いる政府の基地政策を批判した。
 1995年の米兵による少女暴行事件以降、大田は、これらのフレーズをさまざまな機会に繰り返し繰り返し語り続けた。これほどあけすけに、包み隠さず、時には感情をあらわにして、沖縄の声を本土にぶつけた沖縄県知事はいない。大田の知事としての功績は、沖縄の米軍基地問題を全国に訴え、日米安保をめぐる世論を喚起したことに尽きる。
 たとえ束の間ではあれ、「山を動かした」という実感を沖縄の多くの人たちが持ち得たということは、たいへんなことである。冷戦の終了、55年体制の終えん、社民党を含む連立政権の誕生。これらの要因を無視することはできないが、95年からの3年間の基地問題のうねりは、大田という個性を抜きにしては語れない。

大田は沖縄師範学校在学中、鉄血勤皇隊として動員され、沖縄戦を体験した。食うや食わずの米軍占領下、生き残りの隊員が真っ先に手がけたのは、学友の遺骨を拾い集めることだった。大田の原点は沖縄戦体験にあり、それが後の沖縄研究につながっていく。ある時、研究者として講演した大田は、戦死した鉄血勤皇隊員の母親に、「どうしてうちの息子は死んで、あなたは生き残っているのか」と詰問され、返す言葉に詰まったという。
 戦後50年の節目に大田は、糸満摩文仁まぶに「平和のいしじを建設した。礎には、沖縄戦などで亡くなった24万余り(2022年6月現在)の人々の名が、国籍を問わず刻まれている。

大田は著書の中で、対日講和条約による日本本土からの分離、米軍基地の過重な負担など沖縄への差別的処遇を指弾。その一方で、沖縄人の事大主義的な傾向についても厳しく指摘し続けてきた。
 政治家としては、基地をカードに経済振興策を引き出すなどしたたかさも見せたが、基地の使用に必要な公告縦覧代行では、苦渋の選択を迫られた。
 「理念」と「現実」の狭間で揺れ動き、悩み苦しみ抜いた大田は、おびただしい賞賛と、有形無形の激しい圧力にさらされた知事でもあった。2017年6月12日逝去。享年92歳。