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桜坂さくらざか

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「珊瑚座」は後に映画館「桜坂琉映館」となり、1986年に「桜坂シネコン琉映」としてリニューアルされたが2005年4月に閉館。同年7月に「桜坂劇場」として、映画上映の他ライブ・コンサートやイベントも行う劇場、カフェ、書店、クラフトショップなどが共生するマルチ・カルチャー劇場として発展的に生まれ変わった。
写真:垂見健吾

那覇の牧志まきしには昔、追剥ぎが出たという。首里しゅり王府は村がないから追剥ぎが出るのだろうと村をつくるようにすすめた。しかし、人々は無視したから、首里王府は強制的に小禄おろくから人を移住させたという。

戦後、牧志の国際ショッピングセンター(現・複合施設「てんぶす那覇」)の裏手にある「希望ヶ丘」には(現在は整備された公園だが)、大小の墓が立ち並んでいた。
 また、丘には大きな洞穴があり、戦前は近くのパナマ帽子編みの女性たちの仕事場だった。戦時中は避難壕になった。
 希望ヶ丘からの眺めは素晴らしく、遠く首里、小禄が望めた。丘の上に1952年(昭和27)7月、演劇専門劇場の珊瑚座が完成したが、しばらくはグソー(あの世)の人もハブも入場したと揶揄された。

まもなく那覇市が崖を切り開き、見事な坂道をつくり、商業の中心地だった平和通りにつないだ。那覇の名所の一つにしようという目論みから、坂道の両側には山原産の100本の桜の木を植えた。
 道が完成すると、たちまち劇場のまわりに飲食店、カフェ、キャバレー、クラブなどが出現した。まもなく、地域の活性化を図る団体「桜坂通り団」が結成された。ますます建築ラッシュは続き、100本の桜もほとんど切り倒されてしまった。
 当時の沖縄の社交街とはいささか違い、米軍人の立ち入りは歓迎しなかったから、Aサイン業者の桜坂進出はせいぜい数軒だった。米軍人の出入りはほとんど見られなかったが、クリスマスなどには沖縄の男女が押し寄せ、通りを埋め尽くした。

最近は昔とは違い、おちついた社交街になっている。家主はよくバーなどを転売するから、家主の顔を知らないホステスもいるという。
 店の壁は薄く、隣のカラオケがはっきり聞こえるし、ジュークボックスもまだある。配管されていないガスをカウンターの下に置き、ゴソゴソとつまみを作る。ママは60、70歳になり、親子のホステスも多く、同郷、同級生の客が支えているともいう。
 昔、金のない時、ただで飲ませてもらった恩を忘れず、出世した今も、小さい古い店に「ママのソーミンチャンプルーを食べないといけない」と飲みに来る人も多いという。客引きはしないし、一般に安く、家庭的といわれている。
 現在、希望ヶ丘公園には当時の桜が何本か残っている1

【編集部注】

  1. 桜坂一帯を横断し、国際通りから那覇市道開南線を結ぶ「那覇市道牧志壺屋線」が2012~2017年(一部~全面)開通した。沿道を中心に再開発が進行中である。