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ジャズ

執筆者:

写真:嘉納辰彦

戦後の米軍基地内に設置されたクラブで、多数のジャズミュージシャンが必要となったが、当時の沖縄には皆無に近く、ジャズメンは米本国、フィリピン、日本本土から呼び寄せられた。
 そこでは、ミュージシャンの人数が契約で厳しく定められたので、不足人数は、沖縄の高校生のバンド部員が、「かかし」と言われる方法で埋められていた。文字通り、楽器を持っているだけの状態でだ。実態を知らない米軍は、契約どおり、バンドマスターに全額支払っていたのだ。
 当時のバンドマスターは、フィリピン人や大和人ヤマトゥンチュのみであった。「かかし」のギャラは、「かかし」の手を素通りし、バンドマスターのポケットに入るという仕組みだった。

それを横目に見てくやしがった沖縄の高校生たちは、必死になってジャズを猛勉強し始めたのである。これが、沖縄ジャズの起源となる。
 当時、米軍クラブは約50ヵ所あり、特に数ヵ所の将校クラブでは、結構、米国等の一流ジャズメンが出演し、さながら、ニューヨーク等の一流クラブの様相を呈していた。
 高度な彼らのテクニックを直に見聴きできるという環境と、演奏テクニックでギャラが決まるというシステムでもって、沖縄の高校生や大学生は、演奏テクニックのレベルアップに励み、数年後には、沖縄人のみでもハイレベルのジャズを演奏できる域に達したのである。ドルの威力はスゴイのだ。
 米国統治時代は沖縄ジャズの黄金期であった。プレイヤーで約800人、ヴォーカリストで約50人のジャズミュージシャンが、小さな島オキナワで活動していたのである。あの忌まわしい戦争で島全体が壊滅状態になったのであるが、昔から、唄三線をこよなく愛し、オモシロおかしく遊んでいた沖縄人の音楽センスが、ジャズという形で再度開花したのである。

トコロが、そのようなジャズを聴けるのは、米軍人等を除くと、沖縄人では、一部特権階級の人たちだけだった。親子ラジオ1でジャズを聴き、ジャズが好きになってしまったフツーの沖縄人はどうしたかというと、基地のゲートで、憲兵に訳のわからないことを言い長時間ねばって根負けさせ、目指すクラブに行ったのだ。クラブには、もちろん裏口から入る。裏口に近い所にはウェイトレスやコックとして、心優しい沖縄のオバちゃんオジちゃんがいるので、ノープロブレムである。

オロカなベトナム戦争で疲弊した米国の事情と、ジャズを理解しない日本政府の方針で、クラブの閉鎖があいつぎ、ジャズメンは失職してしまった。一部のグループは渡米し活躍できたが、大多数は楽器を捨て、なれない別世界に放り出され、沖縄ジャズは危機的状況に陥った。しかし、プレイするのもバカ、聴くのもバカと陰口をたたかれながらも、ジャズを捨てきれないミュージシャンの長年の努力のかいがあって、ライブハウスを拠点にしながらの活動は、今やニューヨークにひけをとらないほど充実している。沖縄ジャズは健在である。