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那覇なは

執筆者:

写真:嘉納辰彦

那覇人は那覇をことのほか愛し、その分だけプライドも高い。

那覇人の気質を表す言葉として、「那覇いい」がある。「那覇い走い」というのは、那覇の人間はそれぞれに別々の方向に走るとか向かっている、つまりバラバラであると揶揄される。良く言えば独立心が旺盛ということ。

それと気位が高いという気質もある。廃藩置県後に士族の身分を失ったにも関わらず商いなどで、どちらが客かわからないような横柄な態度で商売していたことは良く知られている。例を挙げると、戦前の那覇の布市場で、那覇以外から来た買い物客に対して店のオーナーである那覇女は、「どうぞお手にとって品定めしてください」というところを、まったく逆の「こーらんらー、触らんけー」と見下して言った。「買う気がなければ商品を触るな!」という意味である。

戦前の賑わっていた那覇の市場風景の写真が残されている。そこには布市場の写真も数多くある。なるほど、買い手よりも売り手の方が上等を着ている。着飾った元士族子女が商いしていたわけだ。商品は新品ではなく、没落士族の家から出た着物が多かったという。市場の様子は、いまでいうところのフリーマーケット風景でもあり、買い手よりも売り手が高価そうな着物を着ているところはハウスマヌカン的でもある。

現在も那覇は商いの街である。牧志まきしの公設市場周辺を歩いてみると、女性の姿が多く見受けられる。沖縄戦で男手を失い、戦後は女手ひとつで生活を支えてきた姿はたくましささえ感じられる。那覇女は戦前から、「男一人くらいは遊ばせてでも」という気風もあった。そういう伝統がいまだに息づいているようにも見える。ただし戦前みたいに、那覇の出身者が多いかといえばそうではない。戦後は県内各地から那覇に移り住んできて、その人々も商売に加わっている。

那覇はもともと首里王府の港町として栄えた。中国、東南アジア、そして日本に開かれた国際港の街であった。おそらくは現在のシンガポールか香港をイメージしてもいいのではないだろうか。

そこで現代的那覇女(30代)に那覇の模様を語ってもらおう。

「はっさ、昔の那覇が国際都市だったって考えられる?うちなんかには考えられないわけよ。いまは国際都市っていうよりも寄留民(那覇以外の出身者のことで、かなり差別的要素を含んでいる)都市さーねー。那覇は首里しゅり小禄おろく真和志まわしもあって、みんなが合併してできたわけ。中学校のときのクラスなんか面白かった。砂川すながわさんも西加治工にしかじくさんも、それにいのりさんもいたわけよ。宮古も八重山も奄美の人もみーんないたってば。でも那覇のいいところは、郷友会きょうゆうかい連合都市だから、選挙の時なんかは各出身市町村対抗で面白いわけよ。本当はコザよりも那覇がチャンプルーってば。10月10日の那覇大綱挽なんかは、東西に分かれているけど今はどこ挽いてもいいわけよ。那覇の一番いいところはマンチャー・ヒンチャー(混ぜこぜ)のところ、だはずよ」