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セジ

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セジは霊力のことである。神に近い人を「セジダカ」という。宗教者は「セジ高」なわけだ。しかし、セジは人に内在しているわけでもない。『おもろさうし』に、戦いに出るときには、「戦さセジ」を賜わることがみえる。この場合は、外からセジを付けてもらうわけだ。むしろ、こういう言い方のほうがセジの内容に合っている。霊魂が外から身体に憑く。

沖縄は、こういう霊魂がまだ生きている世界である。それは、近代が迷信として捨てようとしたものだ。しかし、人は一律に同じであるわけはなく、しかも外部との繋がりをもたなければ生きていけない存在である。その複雑さ、わけのわからなさが外部との関係で、セジというような霊魂を幻想することになる。人は、自分を意志で完全に統御できるわけではないのだ。その意志を超えた不可思議さを霊的な力として、外部にその根拠を求め、セジといった。

この人間の不可解さは、いくら近代の科学が迷信といって遠ざけようとも、なくなるものではない。それゆえ、それは個人の内部に潜められることになる。そして、それが不幸な蓄積の仕方をすれば、病院へ行かされることになる。沖縄では、「セジ高」の人であるユタ、カンカカリャ(神かり人)、ムヌシリ(物知り)などがいて、そういう魂を救う方法を社会的にもっているわけだ。それは、人の意志を超える不可思議さが社会的な認識として生きているから可能なのである。

それゆえ、「セジ高」はそれほど特殊なことではない。近代では感受性の強い人という言い方が、沖縄では「セジ高」の人「セジ高生まれ」というくらいの場合もある。もちろん、特別に感受性が強い場合である。