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八重山上布

執筆者:

写真:垂見健吾

結城紬を絹織物の最高峰だとすれば、麻の織物でそれに匹敵するとされるのが宮古上布だろう。その宮古上布は黒に近いほどの強い色で、石垣島が主産地の八重山上布は、白地に絣模様を織り出したものだとされて来た。つまり、材料は同じ苧麻ちょまの繊維であっても、仕上りは写真のネガとポジのように裏表の差があると考えるのが常識として通用した。だが、近来、それに見直しが行われ始めて来ている。
 八重山上布にも宮古上布に似た風合いのものが数多くあったことが、実証されたからである。一方で、昔の宮古上布には八重山上布にそっくりなものが現存するといわれる。

いずれにせよ、両種の上布は薩摩藩による琉球支配、その支配体制が持ちこんだ人頭税と密接に関係がある。現在も宮古島平良ひらら市西仲宗根の海岸に残っている人頭税石により、1メートル余の身長に達した人間には、頭割りで税金が課せられ、穀物、上布の貢納が義務づけられたと伝えられる。宮古島の場合、農地が少なかったために、上布による代納が許された。それが宮古上布をより高度な技法のものに仕立て上げて行った面がある。
 一方で、宮古上布の圧倒的な好評は、八重山上布の質の向上を促す恰好の口実にも用いられた。デザインを指示する絵図が送られて来て、それにより糸の細さ、布の幅と長さ、色の指定までがなされ、検査は厳重を極めたものだったといわれる。無論、貢納自体の履行と共に厳罰を伴った。
 そのような経緯からすれば、両者が相互に似たものになるのは当然である。端的にいえば、当初、両者の差は藍染めの濃さの違いだったという。八重山上布の方が後年白絣になるくらいだから薄い。この差は染色を重ねる度数から来る。但し、八重山の淡い藍染めでも、内地の陽差し程度で色焼けはしない。

上布が人頭税の象徴的産物であったことは、本来の産地の名を冠した呼称で呼ばれるようになったのが、明治末年であった事実からもうかがえる。それまでの呼称は総て薩摩上布であった。まさに搾取を裏づける歴史的、象徴的な事実というべきだろう。

八重山が白地になったのは比較的近年のことらしい。大正年間から昭和10年代初期にかけて、宮古上布同様に八重山上布にも空前の好況が訪れる。それらが因となって、八重山上布に摺込みの技法が導入されたらしい。宮古上布がくくり染めに執着し、より精緻で人工の極を目差したのと対照的な現象となり、両者の市場価格に格段の差が生れる。
 但し、八重山上布も本来は括り染めで、白地ではなかったことを実証した新垣幸子が、古来の八重山上布の復活を手がけ、当初は異端視されたが、現在は多くの支持を得るようになった。宮古上布に比べて、八重山は糸の紡ぎ手が少く、縦糸にラミーを用い横糸も太いため、価格差はなかなか縮まらない。しかし、白絣ではない八重山上布は、石垣島の風土を思わせる大らかな印象を持ち、植物染料による様々な地色と大胆な図柄で注目を浴び始めている。