世界のウチナーンチュ大会
1996年12月、南米・ペルーの日本大使公邸でゲリラによる襲撃事件が起こり、世界を震撼させた。青木盛久大使はじめ日本人、日系人、ペルー人、外国大使館員ら多数が人質になり、ペルーからのテレビ中継、報道で日本も大騒ぎになったが、あの時、人質の日系人の中に沖縄県人が大勢いたことを覚えている人も多いと思う。沖縄は熊本、広島などと並んで日本有数の移民県なのだ。
南米ペルーでは日系人8万人のうち7割、約5万6000人、ブラジルでは日系人120万人のうち1割、約12万人が沖縄県出身者といわれる。世界各地に沖縄県出身者が住んでいる。その数、30万人ともいわれる。(2018年現在)
彼らに共通していることがある。どこに住んでいても古里沖縄への想いを募らせ、母県の県人以上に沖縄的になっていることだ。ブラジル・サンパウロでのこと。第1回カラオケ沖縄民謡大会が開かれていた。飛行機や汽車を乗り継いで多くの沖縄1世、2世、3世が大会で沖縄民謡を歌うためブラジル全国から集まってきた。それが朝9時ごろから夕方5時、6時まで。地球の反対側、周りはポルトガル語(ブラジル語)を話す世界で、延々と一日中かけて、古里沖縄の民謡を歌っているのを見て、驚いたことがある。2世、3世の中には日本語を話せない者もいたが、ウチナーグチで歌う民謡は沖縄で聞く以上のものだった。その会場で出されたウチナーそばがこれまた最高だった。
沖縄県の地元紙『琉球新報』はそんな彼らに焦点を当て、世界で活躍する県人を現地に取材し、紹介することによって、沖縄県人のアイデンティティーを確認し、これからの国際化時代を考え、沖縄県人として世界にはばたこうではないか、という大型連載企画「世界のウチナーンチュ」を1984年1月1日からスタートした。
連載は全世界にまたがり、足掛け2年続けられた。これが大ヒットした。どこの市町村にも移民や海外に出かけている人がいるので、記事が載るたびに話題が話題を呼び、「世界のウチナーンチュ」ブームが起こった。
県当局もこんな大ブームを放っておけなくなった。そうして生まれたのがその名も同じ「世界のウチナーンチュ大会」。最初の大会は1990年8月23日から26日まで開催された。世界19カ国から2000人のウチナーンチュが古里沖縄に集まった。期間中の参加者43万人。苦労した移民たちは夢にまで見た古里で、温かい、心からの歓迎を受け、感動と涙の数日を過ごした。みんな「ウチナー(沖縄)に生まれてよかった」と手を取り合って喜び、そして、再び、世界各国へ帰っていった。この大会が大成功を収めたため、5年後の1995年11月、「第2回世界のウチナーンチュ大会」が開かれた。これもまた大成功だった。
各種の意識調査によると、自分が「○○県人である」という県人意識が全国で最も強いのが沖縄県人で、そんな県人意識が「世界のウチナーンチュ大会」を成功させているのだ。
2000年には「第3回世界のウチナーンチュ大会」1が開催されることになっている。
【編集部注】
- 第3回世界のウチナーンチュ大会は、沖縄県が2000年サミットの開催地となったために、翌2001年に延期された。第4回以後、2016年の第6回大会まで5年おきに開催されている。2021年はコロナ禍で延期となり、第7回世界のウチナーンチュ大会は2022年開催となった。