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芭蕉布ばしょうふ

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写真:垂見健吾

沖縄を代表する織物のひとつである。丈夫な上に張りがあって涼しいので、昔は労働着から上流の衣裳まであらゆる分野に用いられ、産地も沖縄全土にわたっていたといわれる。
 糸芭蕉の繊維を爪で裂き、一定の太さに揃えた糸で織り上げる。芭蕉は乾燥に弱く切れ易いので霧を吹いて湿気を与えながら織り上げる。手間を惜しまぬ根気と愛情の織物だというべきだろう。

現在は産地がひどく限定され、最も旺盛な生産地山原やんばるの大宜味村喜如嘉おおぎみそんきじょかが、事実上唯一の産地になってしまった。その原因は着尺1反分に200本の糸芭蕉が必要とされる材料難もあるが、完成品にするまでに多大の手間を要するせいではなかろうか。
 全工程が人の手による作業であるために量産がきかず、現在の社会構造、経済構造が総て芭蕉布の生産を圧迫する要素として働く。全生涯を芭蕉布に捧げた観がある平良たいら敏子によれば、糸芭蕉の畑は次第に他の目的に転用され、織り上った反物を煮る木灰は日々入手困難になるという状況である。
 生産反数年間350反(1992年当時)は、平良をはじめとした喜如嘉の人々の意地が生み出すものであって、糸の紡ぎ手は年々老化し、織り手の養成にも限度がある。
 その分、極度の品薄状態が続き、高値を呼ぶことも確かだが、ある程度の供給が確保されないと、広い需要が呼び起されぬことも事実といえよう。

写真:垂見健吾

 一集落に芭蕉布の生産が残され、現在村の人々によって保持されて来た背景には、元倉敷紡績社長大原総一郎を初めとする内地の人々の、励ましと援助があった。女子挺身隊に加わって倉敷で戦時中を過した平良らに、大原たちは沖縄の伝統を継ぐ芭蕉布を絶やすなと、敗戦後いち早く実験工房を作るなどの支援を行い、帰郷する際にも「沖縄文化再建」の祈りを託した。
 平良はそれを受けとめ、常に再建、前進の中心人物の役割りを果し続け、昭和49年、「喜如嘉の芭蕉布保存会」として、国の重要無形文化財の指定を受ける。個人の功を口にせず、集落の誇りと名誉を先に考える平良の生き方が理解と支持を受け、唯一の産地を残したのである。ある意味では、太平洋戦争を通じて、内地が沖縄に贈った唯ひとつの善根であり、喜如嘉の人々がそれを守り育てたのが芭蕉布だともいえる。

芭蕉布には通常の絣のような絵図はない。くくり染めにした横糸を自在に動かして、意図した通りの図柄を織り出す。その分模様が即興性に富み、ダイナミックなものになる。
 皺のより易い布地であるために、座った形から裾を踏んで立つといわれるが、それは琉装の話であって、和装では端折りの部分があるから、裾を踏むことは出来ない。
 着尺の他に帯やテーブルセンターなども生産され、着尺と共に沖縄の豊かな自然を反映した織物として愛好されている。