不発弾
夏、離島に遊びに行く。民宿の舟で小さな無人島に渡してもらって、ビーチパラソルを立て、砂の上にシートを敷いてから、いよいよ海に向かう。ところが、待てよ、砂浜に何か落ちている。長さ40センチ、太さ10センチほどの鉄の筒。ずいぶん錆びているが、一方が尖ったその形から、砲弾だということは一目でわかる。不発弾だ。蹴っ飛ばしたり動かしたりするとバクハツするから、遠くからおそるおそる見て、離れたところで泳ぐ。夕方民宿に帰って、一応報告しておく。「今度自衛隊が来た時に処理してもらうよ」という軽い返事が返ってきて、こういうことは珍しくないのだとわかる。
あるいは、那覇の市役所から「不発弾撤去作業に伴う避難について」というビラが来る。市内で米国製50キロ爆弾が発見されたので、今度の日曜日の午前中に撤去する。半径500メートル以内の人は近くの学校や公民館に避難してください、という内容。これもまた沖縄では珍しいことではない。
実際の話、沖縄では毎年3万発以上の不発弾が見つかっている。戦争が終わってから50年たってもこんなに出てくる。沖縄戦でこの狭い島に降った爆弾や砲弾、埋められた地雷の総量は20万トン。その5パーセントにあたる1万トンが不発だったとされる。その3分の1は処理された。3分の1はすっかり風化しているからないものと見なしてもよい。問題は残る3500トンほど。これは沖縄本島の1平方キロあたり約1・5トンになる。旧激戦地ではもっともっと多いはずだ。年間3万発ずつ処理するといっても重量にすればわずか50トン。全部を処理するには70年かかる勘定だ。発見量は年々減ってきているから、実際には沖縄から不発弾の脅威がなくなる日はない。
戦後間もないころは不発弾は鉄屑として商売の対象だった。火薬を抜かないと売れないから、事故もよく起こった(大城立裕の『かがやける荒野』にその場面がある)。また子供たちはよく不発弾の火薬で花火遊びをしたから、ここでも事故が起こった。1974年には那覇市小禄で旧日本軍の大型地雷が爆発、幼児を含む死者4名、重軽傷者34名、建物の破壊86棟、車の破壊51台という大事故が起こっている。
おまけに、沖縄には水爆の不発弾もある。実際には水深5000メートルの琉球海溝の底だが、1965年に航空母艦から艦載機ごと落ちてそのままになっている。
映画『パイナップル・ツアーズ』は不発弾探しの話だが、この中で、てるりんこと照屋林助1が言う台詞が「本当に恐いのは心の不発弾」。そう、本土の政治家たちは沖縄県民の心の中にひそむ不発弾に気をつけた方がいい。
【編集部注】
- 照屋林助(1929~2005)音楽家、漫談家。