久米三十六姓
14世紀末頃から琉球に移住して、重要な役割を担った中国系の人々およびその子孫たちのこと。久米村人、閩人三十六姓ともいう。久米村は那覇の一角にできたチャイナタウンの名前、閩人の閩は中国の福建省のニックネーム。三十六姓とは金・蔡・梁・鄭といった中国の姓が36もあるという意味ではなく、多くの、たくさんの、といったほどの意味。京都を取り巻く山々のことを東山三十六峰と呼ぶネーミングのこころに同じ。
海外貿易の推進、中国文化の導入などの面で大きな役割を担った。多くの優れた人材を輩出したが、その中でも薩摩軍の侵攻(1609年)時に断固戦うべしと主張して奮戦し、薩摩の手によって斬罪に処せられた謝名利山(中国名・鄭迥)、政治家として王国社会を隆盛に導いた具志頭文若(蔡温)は特に有名である。中国人の子孫でありながらもしだいに琉球アイデンティティを獲得し、ウチナーンチュ社会に融合した。現在では、那覇市の地名「久米町」や彼らが信仰した航海安全の神、天妃宮跡などが僅かに残るのみである。