瀬長亀次郎
1907~2001。1990年、日本共産党副委員長を83歳で引退した瀬長は、「カメさん」の名で親しまれ、「トッキュウ」こと徳田球一(弁護士・日本共産党元書記長)と並ぶ、沖縄・奄美の生んだ最も有名な政治家である。
鹿児島の七高を社会科学研究会の活動で放校された瀬長は、京浜地区で治安維持法違反により3年間投獄され、出所して沖縄へ帰り、「毎日新聞」支局記者になった。戦後は「うるま新報」(後の「琉球新報」)社長に就任したが、47年7月に沖縄人民党を結成したため、アメリカ軍の圧力で社長を辞任した。
52年3月、初の立法院議員選挙で最高点当選して、54年10月、アメリカ民政府から退島命令が出た人民党員を地下に潜行させ、犯人隠匿幇助罪などで懲役2年に処せられた。
56年12月、那覇市長に当選し、アメリカ軍支配への抵抗のシンボルとして、瀬長の名は本土で広く知られるようになった。① 住民の土地を守る ② 原水爆基地反対 ③ 日本復帰をスローガンに掲げた市長の登場で、民政府は補助金の打切り、銀行融資の中止、市預金の凍結など、きびしく締めつけた。
保守派が多数の那覇市議会は、市長不信任案を可決した。これに議会解散で応じた瀬長は、57年7月の市長選で再選され、支持派の議席も増えた。そこで民政府は、市町村自治法などを改正して不信任案を成立させ、ついに瀬長は追放された。
しかし、大衆的な人気に支えられて、70年11月から衆議院に7期連続当選した(沖縄人民党は73年に日本共産党に合流)。1
【編集部注】
- 瀬長亀次郎の残した戦後の民衆資料を展示する資料館「不屈館」が2013年に開館した。館長は内村千尋(亀次郎の次女)。