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蔡温さいおん

執筆者:

画家山里将聖(1907−1960)による「具志頭親方蔡温(部分)」(個人蔵)
写真:嘉納辰彦

1682~1761年。近世琉球王国を代表する最も著名な政治家。琉球のエリートは例外なしに中国名(唐名)を持っており、蔡温もそれ。琉球名は具志頭ぐしちゃん文若ぶんじゃくである。中国から琉球に移住した久米三十六姓の子孫で、父親の蔡鐸さいたくは有名な学者・文化人。琉球人には珍しく20冊近くの著書を著しており、特に『自叙伝』をみずから書いたのは蔡温だけ。

27歳の時に役目を得て始めて中国(福建省)に渡り、その地で生き方のコペルニクス的転回を経験したという。勉学を積み自信にあふれていた蔡温に対し、ある謎の人物が「君は何のために勉強するのか」と聞いた。「琉球に生きる人民を幸福にするためです」と蔡温が答えると、その人物は、「では聞くが、人民を幸せにするとは何をなすことなのか」と厳しく詰問した。問答に破れた蔡温は、理念に溺れるのではなく、常に具体的な展望を秘めて事に当たれ、というメッセージを得た。
 それ以後の彼は政治哲学に通じ、詩文をよくし、学問が深いだけではなく、治水・治山の技術を帯び、自然科学を認識するなど徹底した実務型の指導者となった。1735年に行われた羽地はねじ大川(名護市)の大規模な改修工事の際にはみずから計画立案、工事施工の陣頭指揮をとるなど彼らしいスタンスで仕事をしている。

蔡温の時代は、今日に伝わる伝統文化(芸能・工芸・生活文化など)が隆盛を見た時期であった。琉球的・沖縄的なスタイルが確立した時代と言ってもよい。

晩年、王国の経営は「たとえて言えば、朽ちた手綱で馬を走らせるようなものだ」、と彼は感想を述べている。マルチ型人間であった彼さえも、琉球経営が微妙なバランスの上に成り立っていたことを認めざるをえなかったのである。