琉歌
古来たんに「ウタ」と呼ばれてきたものが、薩摩侵入(1609)以後、ヤマトの歌である和歌と区別するために「琉歌」といわれるようになった、と推定されている。
琉歌は形式上の特徴から、短歌、長歌、仲風、口説、木遣りなどに分けられるが、短歌が圧倒的に多く、ふつう琉歌というとこの短歌を指す。ここではその狭義の琉歌(短歌)を紹介していきたい。
まず琉歌の特色を挙げてみよう。
(1)8・8・8・6、計30音の定型短歌である(和歌の57577とまったく異なる調べをもつ)。
(2)三線にのせて歌われる歌である。最初の琉歌集成である『琉歌百控乾柔節流』(1795)は、その歌を歌うときの三線の節(メロディー)によって分類されている。長い時間のなかで、この歌はこの節で歌おうということが自然にできていったのだろう。たとえば恩納節という節があり、その節で歌われる歌が20首ある、というふうに。すなわち詠むというより三線にのせて口ずさんだものであり、読むより先に声に出して歌ったものであった。
(3)三線にのせて歌ったことが、8・8・8・6の音型にどう影響したのかはまだよく解明されていないらしい。
(4)また、古典的な歌は、多く沖縄の古典舞踊と結びついている。琉歌が踊られるのである。
(5)作者名がわからない歌がきわめて多い。現在流布されている最大規模の集成である『標音評釈 琉歌全集』(島袋盛敏・翁長俊郎、1968、武蔵野書院)には3000首の歌が収録されているが、そのうち約1700首は作者不明である。
以下に琉歌をいくつか例として出す。
恩納松下に 禁止の牌の立ちゆす
恋忍ぶまでの 禁止やないさめ
(恩納なべ・恩納節)
三重城にのぼて 手巾持上げれば
走船のならひや 一目ど見ゆる
(読人しらず・花風)
諸鈍めやらべの 雪のろの歯口
いつか夜のくれて み口吸わな
(読人しらず・諸鈍節)
伊集の木の花や あんきよらさ咲きゆり
わぬも伊集のごと 真白咲かな
(読人しらず・辺野喜節)
以上、表記と読み方は前出の『琉歌全集』によったが、8・8・8・6の音型がよくわかるように分かち書きにした。紙数の都合もあり解釈はあえて付さないでおく。沖縄語を解さない人にとっては(私もそのひとりだが)、琉歌はそうとうに理解しにくいことがうかがえるだろう。
つぎに、素人として琉歌を読んでいる者の個人的感想をいくつか記しておく。
(1)漢字仮名まじりの表記は実際の発音(カタカナで示した)とかなりへだたりがある。採録時に、日本語表記に近寄せようとしたせいだろうか。採録時の沖縄語の発音はこの表記に近かったという説もあるが、とにかく表記法のせいで、音律がいよいよ捉えにくくなっている。
(2)「おもろ」が古代的叙事詩的歌謡であるのに対し、琉歌は「おもろ」を成立させた古代的共同体から抜け出した個人的抒情歌、というのが定説になっているが果してそうか。琉歌でいちばん魅力的なのは、共同体的感情を結実させている「読み人しらず」の作である。
(3)代表的琉歌人として、平敷屋朝敏、玉城朝薫、恩納なべ、よしや思鶴などがよく挙げられる。このうち、「読み人しらず」に拮抗できるのは恩納なべの作だけだと思う。そして恩納なべは、18世紀前半の農村の女性というだけがわかっていて、その経歴はすべて伝説のなかにある。なべの歌は個性などというものに彩られてはおらず、共同体的感情をストレートに歌った力強さがある。つまり「読み人しらず」の歌と同じ性格をもつ。
(4)王府時代から連綿としてある共同体のなかで、琉歌は音楽にのせて歌われてきた。そこに琉歌の魅力の核心があると思う。
(5)しかし、琉歌は現在にいたるまで、沖縄の人が情をのべる詩形式として生き残っている。いまでも新聞には「琉歌欄」があって投稿もけっこうさかんだ。それを軽視するわけにはいかないが、私見では、琉歌の伝統は喜納昌吉や知名定男の歌声のなかに、より濃密に息づいているように思われる。