糸満
オキナワときくとイトマンを連想する本土の住人が多いのではないでしょうか。
イトマン(糸満)は那覇市南西の漁港の町。イトマンチューと呼ばれるここの漁民は、琉球列島のなかでも、きわめて独特な漁法、社会制度、女性の働きを発達させ、沖縄近海だけでなく、日本本土から遠く東南アジアまで長期出漁しました。
高度成長期以後画一的な生産消費文化が列島全域をおおうようになって、イトマンの独自性も失われてきたが、そのいくつかの特徴を回顧してみます。
漁業・漁法。まず理解しておかなければならないのは、琉球列島は水田稲作を含めてかならずしも農耕に向く土地柄ではないのだが、王朝時代以来、農業が奨励され住民は農民だったことである。海に囲まれた島なのに漁民はむしろ少数者でした。そこにイトマンという独自の漁民文化が発達したのです。1984年の調査によると、沖縄全県でもはや9統しか残っていないのですが、よく知られている、サバニというくり舟8隻に30~40人の漁民が乗り組んで、集団で行う潜水追い込み網漁です。海底に袖網のついた袋網を取り付け、漁夫が潜水してグルクンやトビウオなどの魚群を追い込んで一網打尽にする漁法です。かなりの訓練が必要で初心者の少年は礁湖(イノー)でパンタタカーと呼ばれる浅海漁を行う。そして20メートル近くも潜れるようになると親方に率いられて本式の大型追込網(廻高網=アギヤー)に従事するようになる。
この漁に従事するのはイトマンの子弟だけではなかった。ヤトイングヮというこの地方独特の雇い子制度があった。農村部の幼児が買われてきて働かされるのです。沖縄が戦後米軍に占領されてヤトイングヮは一種の奴隷制度ではないかと排斥されたが、その後の調査によると親方の実子とヤトイングヮのあいだにそれほどの差別はなかった。海の技術を習得させるために幼児を年季奉公で手放した農民が多かったようです。大正期にイトマンは東南アジアへ出漁するが、そこで雇った現地少年たちも能力に応じて賃金が支払われていました。
イトマンの漁業は親方制によるものでした。その階層はインジョー・テーソ(親方・袋網所有者)、トモヌイ(共乗り、サバニや垣網の所有者)、ヒーヌイ(平漁夫)くらいでそれほど閉鎖的なものではなかった。むしろ本土の網元制度の方が過酷な階級性であったようです。
イトマン漁民は何年、何か月でも時間をかけ、ときには行った先に仮住まいしてついにはそこに分村することもありました。こうした漁法を広域漁法と呼ぶことにします。日本漁業の発展は地先漁業、沖合漁業、遠洋漁業と言う3段階だったというのが漁業史の定説ですが、私はもう一つ広域漁業という分野があったと考えています。イトマンはこれが得意だったのです。
農民も男女協力して田畑で働くが、漁民はそれ以上です。夫婦で舟に乗るだけでなく、男の採った魚を女が売り歩くという行商がどこにもありました。イトマンではこの女性の行商をカミアチネーといい、男の魚を女が買い取って、その利益を自分で貯めこんだのです。これをワタクサーといい、本土語では「ヘソクリ」と訳されていますが、それはヘソクリのように密やかな行為ではなく、むしろ女性の堂々とした権利行使だったと思います。イトマン漁民社会はこのように独自なものでした。それが失われていくのは残念なことです。