辺野古

写真:垂見健吾
もともとは小さな集落である。名護市の中心部からおおよそ東に向かって山を越え、太平洋岸に出たところ。北東の側は大浦湾に面し、東の辺野古湾に漁港がある。今の人口は1700人ほど1。
面積は11平方キロあるが、その大半はアメリカ軍の基地に占められ、民間の土地はほんの少ししかない。
戦前は小規模な漁業と林業で暮らしていた。魚はたくさん捕れたし、山からは薪炭や樟脳を産した。
本島南部と違ってここが沖縄戦の戦場になることはなかったが、1945年6月、沖縄戦終結の前に米軍が来て大浦崎収容所を建設し、劣悪な環境に民間人2万5千人を押し込めた。ここで死んだ人も多い。
1950年に朝鮮戦争が始まると辺野古の山に実弾演習場が造られ、やがてキャンプ・シュワブという海兵隊の大きな基地になった。シュワブは沖縄戦で戦死したアメリカの兵士の名である。
兵士が集まるところには歓楽街ができる。ベトナム戦争の時には辺野古社交街は大いに賑わい、外からたくさんの人が集まったが、悪いこともたくさん起こった。1973年にアメリカがベトナムから手を引くと廃れた。社交街は今も少し残っている。

写真:垂見健吾
1995年の米兵による少女暴行事件を機に沖縄全県で基地返還の機運が高まり、国と米軍は普天間基地の返還を決めた。代替基地を作る候補地として辺野古が上がったのは1997年1月。海に面した僻地ですでにキャンプ・シュワブがあるからというのが理由だっただろうが、しかし普天間の身代わりが辺野古なのか。
なぜ自分たちのところなのか、とここに住む人は思ったことだろう。
さまざまな工法が提案され、沖合に浮体式のヘリポートを造るという案などが検討されたが、最後に残ったのは埋め立て。大浦湾に大量の土砂を投入して広大な地面を造成しV字型に2本の滑走路を造る。
こうなるまでに県知事は大田昌秀、稲嶺恵一、仲井真弘多、翁長雄志、玉城デニーと替わり、名護市長も何度も替わった。みんながいろんなことを言って論はさまざまに揺れ、今も定まっていないように見える。普天間基地の移転先は最低でも県外と言った総理大臣もいたがその声は一瞬にして消えた。
ぜんぶ東京とワシントン、那覇とせいぜい名護の間の議論であり、辺野古が意見を求められることはなかった。1997年12月に名護で住民投票が行われ、反対16639票、賛成14267票という結果になったけれど、住民投票を実施した比嘉鉄也市長は結果を無視して受け入れと言った上で辞任、2013年には仲井真知事が県としての受け入れを表明した。
この間、辺野古での住民投票はなかった。もっとも、あったところで県単位の投票の結果さえ黙殺されたのだから事態を変えることにはならなかっただろう。
すでにここはキャンプ・シュワブを抱えている。基地には犯罪や環境汚染がつきまとう。今だって日々問題は生じている。そこに更に海兵隊の巨大な海上基地が来る。
専門家はこの海には他にはいない生物が多いと言う。沖に堡礁(リーフ)がある礁湖(イノー)ではなく太平洋にそのまま開けた海だ。海底は藻場と珊瑚で、ジュゴンがいるし、アオサンゴの大きな群落もある。36種の甲殻類の新種がここで見つかっている。魚も捕れるし、いい海である。
しかし工事は始まり、連日何百台ものダンプが土砂を運んでくるようになった。
これで本当に海を陸に変えることができるのか。辺野古湾は浅瀬だが大浦湾の方はずいぶん深い。あれが埋められるかと思っていると、海底はしっかりした岩ではなくずぶずぶの軟泥だという話だ。そこにかぎりなく土砂を投入する。なんだか悪夢のような話だ。最初のころの説明と裏腹に完成の期日がどんどん先に延びてゆく。早くても2037年とか。
この騒ぎがまだ何十年も続く。
住民の間には基地はもういらないという声もある。
するとお金が降ってくるような話が聞こえてくる。
菅官房長官という人が、辺野古あたりには名護市を介さずに直接にお金を出せるようにしたいと言った。名護市がそんなものは要らないと言ってもお金は直に流れ込むという仕掛け。でも一人あたり何万円と配られるわけではないらしい。何か役に立つ施設を造ると言う。カラオケ大会ができる公民館とか、テニスコートとか、そんなものが必要だろうか。
米軍の偉い人が、本当は普天間から動きたくないのだと言ったという話が伝わった。あっちの方が町中で便利だし、敵国がまっすぐ見えるし。
だったらなんでここの埋立をするのか。兆単位という想像できない額のお金が動いているのはうっすらわかる。本土のゼネコンの儲けの何十分の一かが地元の土建屋にも回される。だから選挙ではこっちに入れろと小声で言われる。
辺野古で暮らすのは楽なことではない。
【編集部注】
- 2025年現在。