戦争マラリア
沖縄本島で日本軍の組織的抵抗が末期を迎えていた頃、沖縄県八重山群島を守備していた日本軍は、アメリカ軍の上陸の公算が大きいとして1945年6月1日「官公衙職員、医師等は6月5日までに、一般住民は6月10日までに指定地域に避難せよ」と命じた。
石垣町の登野城、大川は於茂登岳南西の白水。石垣は外山田、新川はウガドウ。大浜村の平得、真栄里、大浜、宮良は武名田原、白保は中水、伊原間、平久保は桴海の地域であった。
それ以前、3~4月にかけて竹富村の波照間島、黒島、新城島、鳩間島などに命令が下り、西表島に8月ころまで強制的に避難させられた。避難地はマラリア菌を媒介するハマダラ蚊の生息地で、いずれも当時から知られていたマラリア有病地帯。避難小屋は空襲を避けるため、山岳地帯の谷間に造られ共同生活であった。
避難数日後にはマラリア罹患者が続出しキニーネやアテプリンなどマラリアの医薬品の不足、栄養不良や非衛生状態のなかでつぎつぎと死亡者が出て悲惨な状態となった。
石垣島白水へ避難した住民は「山へ避難してしばらくたつと、あの小屋でもこの小屋でもマラリア患者がつぎつぎでました。次女も母も高熱で苦しみもだえました。やがて次女はアメーバーを併発して死にました(中略)。棺桶を作るにも板はなく担架にのせて、わたくしたち夫婦だけで名蔵まで運び道から少し離れた丘に穴を掘り、埋めるだけの弔いです。墓標をたてることもできず、位牌もなく、線香1本手向けることもできない悲しい弔いでした。小屋へ戻って見ると、母は熱を出して苦しんでいました。それから2日後、孫の後を追った。」と記している。(石垣市史編集室編『市民の戦時戦後体験記録第二集』より一部省略)
マラリアは、避難地から解除されて市街地や島に帰ってからも猛威を振るった。波照間島では家族全員がマラリアに罹患し、看病することも出来ず一家全滅や幼子だけ残された家もある。
1947年八重山民政府刊行の資料によれば八重山群島での軍命で避難したマラリア死亡者の数は3647人。石垣町・大浜村を合わせては2496人。竹富村785人。与那国村366人。戦争中の全人口3万2000人のうち1割が犠牲となった。なかでも波照間島のマラリアは悲惨を極め、人口1590人中、罹患者1587人。罹患率99・7%。死亡者477人。死亡率30・05%という驚くべき数字が示されている。
犠牲者の遺族たちは1989年沖縄県強制疎開マラリア犠牲者援護会を結成し、援護法による遺族補償運動を展開した。1995年、国は戦争責任や援護法適用を最後まで拒否し、最終的には国が沖縄県に助成し1慰霊碑建立や2祈念館建設等3億円の慰藉事業を行うことで問題を決着した。
【編集部注】
- 1997年、石垣市バンナ公園に八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑が建立された。
- 1999年、摩文仁の平和祈念資料館の分館として、八重山平和祈念館(石垣市新栄町)が開館した。