戦果
沖縄の人々が米軍のベースから、様々な物資を持ち出し、それを生活の足しに、あるいは商売とした時期がある。そのことを「戦果」と言い、行為そのものを「戦果を挙げる」と言った。また、戦果を挙げる人のことを「戦果挙ぎやー」と称した。
沖縄戦が終わり、米軍は沖縄に駐留した。米軍はアメリカの生活をそのまま沖縄に持ち込んできた。主な戦場となった沖縄島では、1945年の4月初旬から続々と捕虜が増えた。米軍の当初の思惑よりも沖縄戦は延び、そのことで捕虜の数が爆発的に拡大した。これは米軍にとっては誤算であり、食糧計画にも大きな障害が生じた。
ということは、沖縄の人々はすでにレーション(野戦用携帯食糧で、ハムやチーズ、それにコーヒーやチューインガムなどが入っていた)を手始めにアメリカの食生活を体験していたことになる。戦争という極限にあって、飢えていた人々はアメリカの食文化をストレートに受け入れていた。
戦争が終わり、やがて住民居住区と米軍基地が金網で隔てられるようになった。基地内でもガードなどの軍作業という仕事が発生してきた。目の前には世界一の物質文明がそれこそ野積みにされ、沖縄の人々の気持ちをそそった。戦果品は食料品だけに限らず、衣料品、ウイスキー、タバコ、寝具類、建築資材、マシーン(ミシンのこと)など、ありとあらゆるものに及んだ。
戦果は金網の内外連係プレーが求められる。基地内に職を得て内部で手引きをする者、それに「切り込み隊」と呼ばれた者との構成要素があって成立する。内部からの手引き者は、必ずしも沖縄の人間だけとは限らず、場合によっては小遣い欲しさの米兵というケースもあったという。
基地内から持ち出された戦果品は、初期だと住民の胃袋に収まったり身にまとうものが多かったが、やがて商品として闇市へと流れ出す。那覇の中心地をなす「平和通り」などがそうだ。同じく那覇市内の「ひめゆり通り」などは、機械のパーツ屋が軒を連ねる巨大闇市であった。
「ひめゆり通り」をこまめに歩くと車1台くらいは簡単に組み立てられるほどの部品が揃っていたとのことだった。それもそのはずで、車そのものを基地内から盗んできて、それを徹底的に解体して各部品屋にバラしているわけだから、車がそっくり元通りに組み立てられて当然であった。沖縄の暴力団事務所が家宅捜索をされたときに、手榴弾や自動小銃、それにバズーカ砲が押収されたこともあったが、やはりそれも基地からの戦果であったはずだ。
戦果挙ぎやーは本来だと、所詮は泥棒のことだが、でもどこかで尊敬に近いような、義賊とは異なった果敢で勇敢な者という語感の響きがある。巨大なアメリカを相手に戦う人物像といってもいいかも。
戦果は、沖縄の戦後経済を長い期間にわたって支えてきた。このことは今日に到るまで、沖縄人と米軍基地との関係を示す大きな事柄でもあったはずだ。