立法院
1972年の「復帰」の前日まで存在した琉球政府の立法機関。
「復帰」前の長い期間にわたって、行政の長である行政主席は米国民政府による任命が続いていたが、立法院は独立して立法権を行使するとされていた。ところがそれはあくまでも米国民政府の意にかなうような法令のもとで行使された。
このことを端的に示したのが「鳩」と「鷹」であった。琉球立法院が建設されて、正面玄関には東京で制作された鳩のレリーフが取り付けられる予定であった。ところが寸前になって、米国民政府からクレームがついた。「鳩は共産主義者ピカソのモチーフであり、まかりならん。レリーフは琉球列島米国民政府のシンボルである鷹こそが相応しい」ということで、せっかく沖縄まで輸送された「鳩」は日の目を見なかった。米国民政府はことあるごとに立法院に介入をしてきた。
アイゼンハワー米国大統領が1960年に沖縄を訪れたことがある。60年安保の時で、反対運動の盛り上がりで日本(東京)へは行けなかったが、沖縄を超スピードで駆け抜けた。その時の様子を、当時ボーイスカウト少年だったSM君は「嘉手納基地近くでオープンカーに乗っているハゲチャビンのアイゼンハワーを見たのですが、高台などにはライフル銃を構えたアメリカ兵が、シニたくさんいた」と語っていた。
完全武装した米兵1万5000人と、琉球警察700人に守られての来沖だった。歓迎陣もいたが、復帰協(沖縄県祖国復帰協議会)、それに大学生や高校生のデモ隊が激しく来沖反対運動を繰り広げた。その時の様子を当時高校生だったKMさんは「高校生だけでアイク来沖反対デモを組織して、気が付いたらデモの先頭で新聞写真にも出ていた。その後、日留(日本留学)に影響が出るのではと心配もした」と語っていた。
琉球政府、そして立法院を訪れたアイゼンハワーは琉球立法院の安里積千代議長から各立法院議員を紹介された。唯一の女性議員だったHMさんは、その時の様子を「その日のために買った白い手袋をはずして握手した。デモ隊が大勢いて、大統領は立法院の裏口から逃げるようにして那覇空軍基地(現在の那覇空港)に向かった」と語っていた。
そのほか、「主席指名阻止闘争」「教公二法阻止闘争」などで立法院が包囲されたことがある。特に「教公二法阻止闘争」の時は、琉球警察の10倍の教員をはじめとする民衆が取り囲み、警察官をごぼう抜きにするという「事件」まで発生した。当時は夫が警察官、妻は教員というカップルも多く、政治的対立がそのまま家庭まで持ち込まれたりもした。
琉球立法院は戦後沖縄歴史の貴重な目撃者でもある。
このように書くと、ほとんど立法院の悪口になっているが、そうでないところもある。現存する(1998年当時)建物2の正面入り口に立った目の高さと、真正面奥の議長席に座っている議長の目の高さとが同じ高さに計算されて設計されている。アメリカ的司法の一面を見せる。現在の沖縄県議会が傍聴席からは議員の姿が見えない設計とは随分と異なる。
【編集部注】
- 【写真】USCARビルの琉球政府立法院で演説をする琉球軍・第9軍司令官ムーア中将(1956年4月30日)。
- 沖縄県庁舎の建設に伴い取り壊される予定であったが、保存運動が起こる。1999年解体され、跡地に記念碑が建てられた。