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サンシン

執筆者:

写真:嘉納辰彦

「先輩、犬が死んでしまったよォ、先輩……」

金城哲夫きんじょうてつお君の電話が深夜にかかってきた。

映画のシナリオ・ライターの先輩後輩の仲だった。この電話の数日後に哲ちゃんは鬼籍の人となった。

復帰前に金城君と会い、その時に真のサンシン(三味線)の音色を耳にした。

「なにか悲しいけど、よく聞くと凄いでしょ」

金城君の言葉に、私はただ黙って頷いた。

その後、沖縄に行く度に金城君と深夜まで酒を飲んで話し合った。胸板のがっしりした逞しい体の彼が笑った時は童顔になった。彼がウルトラマンの企画を最初にした男だと信じている。円谷プロの記録に銘記すべき男である。

この金城君から私は沖縄そのものを学び、沖縄人ウチナーンチュの精神を知った。そして、サンシンの由来を聞いた。

「14世紀に中国から渡ってきた」

金城君の言葉を頼りに調べてみたところ、1392年にのちの久米村に中国人が移住した時とわかった。1402年に琉球の船が武蔵国六浦むさしのくにむつのうらに漂着した時、船中からこのサンシンの音が流れていたという記録がある。中国から渡ったサンシンと、15世紀に燃え上った沖縄の仏教熱と、仏僧が伝えた和文とか和歌が、サンシンの伴奏として根をおろす独特の音律を発生させたといえる。中国と本土の溶け合ったところに琉歌りゅうかの源泉がありそうだ。短詩型日本文学が独自の旋律を生み出したのであろう。このサンシンは沖縄本島を軸にして離島全域に広がっていった。南の自然風土の海と陸の哀歓をそれぞれの人が感情の赴くままに即興的に歌った。この傾向はアメリカの施政下から今日までつづいている。和歌が57577に対し琉歌は8886である。金城君はこの謎を解いてみたいといっていたが、それは果されなかった。

私は22年前、サンシンが黒潮に乗って終極は津軽三味線に至るという仮説を立てて撮影したことがある。この時、サンシンは「三絃」と書くのが正しいと知った。そして、この時、カデカル節といわれる嘉手苅林昌かでかるりんしょうさんの音色に接してしびれてしまった。その即興の巧みさと音色、これこそが沖縄の息遣いであった。そして、敗戦の時には、空缶とパラシュートの紐でカンカラ三絃サンシンを作り出した不屈の精神こそが沖縄の魂であり、またサンシンの神髄であると感じた。悲しみの中に凄さがあるといった金城君の言葉が甦ってきた。ハイキーなメロディは歔泣すすりなきとも聞え、絶叫とも思える不思議な力を持っていた。

「棹は八重山の黒木が最高、だが、現在は伐採禁止でフィリッピン産。胴の皮はタイ産のニシキヘビだ。けやきの胴にヘビの頭の皮を貼る。爪は水牛の角が一番……」

と金城君が教えてくれた。彼に連れられて行った奄美の島で、このサンシンは細い竹製ので打ち下し、打ち上げて弾かれ「ちじん」という島太鼓と見事に溶け合い、泡盛の熱さをさらに増す作用となった。

おおい、哲ちゃん、帰って来いよォ。